第098回 斉藤真一と水野君 

この9月14日午後、「計測自動制御学会」での「特別講演」なる大役(?)を無事に果たした私は、翌15日、一番の飛行機で山形に飛びました。14日に仙台で営まれた、水野正弘君の17回忌に集まった、卒業生の一行に合流するためです。東京在住の幹事、野沢君からの予定表を見ると、墓参りのあと、上山温泉一泊、ついで天童温泉へと移ることになっているので、私は、札幌在住の副幹事、大西君に連絡して、「天童」に泊まるならば、是非共、「斉藤真一、心の美術館」に寄るように、と伝えました。

斉藤真一は、水野君が好きだった画家だからからです。仙台で生まれて、室蘭工業大学、建築工学科を出た水野君は、本が大好きな色白、温顔の美男子で、卒業の頃には、スチール製6段の本棚を10基程も、持っている仲々の蔵書家でした。

彼は又、美術部に属して絵筆をとるほどに画も好きで、その人柄まんま、淡い色彩で澄明な画を描きました。4年生になった時には、もうすこし、本を読み、画を描きたいから、と、卒業を1年のばした位でした

– 斉藤真一「瞽女=盲目の旅芸人」日本放送出版協会   昭47刊 ¥630 ①1

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– 斉藤真一「越後瞽女日記」(普及版)河出書房新社  昭50刊 ¥6,800 ②2

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– 斉藤真一「絵日記、瞽女を訪ねて」日本放送出版協会 昭53刊 ¥1,900 ③3

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その留年の間に、彼は、北海道新聞社(室蘭支社)1階の、こじんまりとしたギャラリーで個展を開きました。あと1日で終わりという頃に私は観に行って、桃を描いた、明るい上にも明るい静物画を、御祝儀がわりに購い、そのあと、近くのソバ屋に彼を伴って一酌したことでした。

この水野君が魂消(たまげ)たことに、26才でガンで死んでしまったのです。彼は、或る日私の所に来て、腰が痛いと言い、長年椎間板ヘルニアで悩んでいる私に、どんな風に痛むのか?などと聞いていましたが、最初の医者の見立てが「何だ。いい若いもんが腰が痛いだなんて!運動不足だよ。」と言うもので、おまけに、安堵して立ち上がった彼の尻を、その医者はポンとたたいて笑ったそうで、それ故、本人は軽く考えていたのでした。

– 斉藤真一「ぶっちんごまの女ー花魁(おいらん)だった 祖母と母の半生 角川書店、昭60刊¥1,800

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*この本、前面小口(こくち=開く側)に画があって、単語帖をめくるようにパラ〜

と早くめくると、その画が動き出す・・という面白い趣向がこらしてあります。他に、吉原を扱ったものとしては、いずれも斎藤真一著の画文集

「明治吉原細見記」河出書房新社 ’85刊 ¥2,200⑤5

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「絵草紙、吉原炎上」文芸春秋刊 昭60刊 ¥2,500⑥6

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があり、この2作は共に映画化されました。

ところが、日増しに痛みが激しくなるので、生まれ故郷の東北大学の病院に行ってみると、ガンが4カ所のも転移しているという有様で、危篤の知らせで諸方からかけつけた知友の驚きと悲しみをおいて、彼は手術もかなわず、僅か数日にして死んでしまったのです。

以来、その死を悼(いた)み、かつ彼を偲ぶ者が、墓参りのあと、彼を肴にして酒をくみかわしながら、2.3泊の旅を共にするのが毎年の習(ならい)となって、今年は、早や17回忌となったのでした。

その水野君の好きだった画家の一人が、瞽女(ごぜ)を描いて1966年頃に登場した斎藤真一でした。

因みに瞽女(ごぜ)とは、「(盲御前の略)で、三味線を弾き、唄を唄いなどして銭を乞う盲の女」(広辞苑による)です。

私が、画家、斎藤真一を知ったのは、NHKから出た「瞽女=盲目の旅芸人」や、河出の「越後瞽女日記」、あたりからだと思いますが、おそらく、水野君も同じだったでしょう。

能代在住の西方君が贈ってくれた「不忍(しのばす)画廊」(’79刊)の図録の中で、作家の水上勉は、斎藤の画について、「真一さんは、瞽女を描いてきた日本でたった一人の画家といってよい。」

– 斉藤真一のノスタルジック、エッセイ -

・ 「一寸(ちょっと)昔」青英舎刊 昭58 ¥900 ⑦7

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・ 「風雨雪ふうせつ」    〃    〃   〃⑧8

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「黒い山と赤い夕暮れと、白い波がしら〜、そこを歩く旅芸人〜彼は瞽女を復活させた。八十才の老女をも、高校の子女をも感動させた。」と書きましたが、この同じ感動は、私や水野君や西方君の口から、たちまち仲間に広まって、それがいまだに続いているのです。

さて、天童温泉での、飲んで、語って、笑って、浴して、のまことに楽しい一夜があけると、私たちは8人乗りのボンゴ車1台を含む、4台の車を連ねて、「斎藤真一、心の美術館」へ一番乗りをしました。折りもよし!!「越後瞽女日記」展をやっています。(7/6〜11/24)

ここは、斎藤の長年の支持者で、「出羽桜美術館」の理事長をもつとめる、仲野清次郎によって1993年に開かれたものです。

さて、先に引いた文章に続けて水上は書いています。「〜私は第1回個展の日のあの会場を埋めていた若者の誰もが、眼をうるませていた光景を忘れない。人々は北国の冬を生きる盲女たちのいのちに魂をゆさぶられたのである。」

斎藤の瞽女の画に現れる「朱色」或いは「赤」は、6才の時の失明した瞽女、杉本キクエがその幼い日の最後に見た夕日の「赤」に触発された色である、そして、画の中で白く輝く星は、瞽女達は死んだら「星」になると信じている、ということを背景にしている、

というようなことを知れば、その画のかもし出す、哀切さは、一層胸に染(し)みて来て、私達も又、眼をうるませて、あきることなく、観てまわったのでした。

*つけたり

水野君の後輩で、日本建築学会賞を受けて卒業した俊秀、根元君は今、青森で活躍していますが、ナント、うらやましいことに、真一の画(「二本木の雪」だったか)を持っているのです。私も「陽の村」と題するものが欲しい・・・と言う訳で、妙な言い方ですがガンバラナクチャ!!

  1. 斉藤真一・瞽女=盲目の旅芸人・日本放送出版協会 (1972) []
  2. 斉藤真一・越後瞽女日記・河出書房新社(1975) []
  3. 斉藤真一・絵日記、瞽女を訪ねて・日本放送出版協会(1978) []
  4. 斉藤真一・ぶっちんごまの女ー花魁(おいらん)だった 祖母と母の半生・角川書店(1985) []
  5. 斎藤真一・明治吉原細見記・河出書房新社(1985) []
  6. 斎藤真一・絵草紙、吉原炎上・文芸春秋刊(1985) []
  7. 斉藤真一・一寸(ちょっと)昔・青英舎刊(1983) []
  8. 斉藤真一・風雨雪ふうせつ・青英舎刊(1983) []

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