第319回 詞藻豊かな松山と宇和島藩

2012年5月寄稿

司馬遼太郎の「街道をゆく」の(14)は「南伊代、西土佐の道」だ。中に「大洲の旧城下」なる一節がある。朝、司馬は道の狭い城下町へと出て行く。町の中心部に近い所で、沢山の蔵が建ち並んでいる一角に入って、司馬は打ち水をしている老婦人にこの蔵は何か?と訊く。答えは蝋の蔵。次いで司馬は武家屋敷はどこか?と訊く。老婦人は「後家中さんですか」と受けて、大体の所を教えてくれたが、歩いているうちに分からなくなりタクシーを拾う。

タクシーは「坂をいくつか上下して、狭い坂の急斜面で停車した。長い練塀がつづき、瀟酒(しょうしゃ)な数奇屋門がある」。運転手が此処だと断言するので、司馬は「武家屋敷だろうか」と疑問を持ちつつも、門内に入ってしまう。「建物は堅牢な中にも数奇の軽みのある普請で、只事ではない感じがする。〜桂離宮のなかのどこかを思わせるようでもある〜」。

結果は武家屋敷ではなかった。「殿様の隠居所ですか」と司馬が訊くと、留守番の婦人の答えは、大洲の蠟問屋の家だ、と。そこへ「明治初年頃の公家華族のような容貌のひと」があらわれて〜。

外へ出た司馬は運転手に「武家屋敷じゃなかったよ」と一言怨み言を言って、この場面はおわるのだが、司馬が正確には正体がつかめなかった、この屋敷についての本が出た。

タイトルは「臥龍山荘ー水郷の数奇屋ー1 」で、送ってくれたのは拙著「本の話」を読んでくれてから、知識と情報のやりとりが続いている松山の栗原恵美子女史。手紙に「〜できましたら”ふくろう文庫”に加えていただきたいのですが、如何でしょうか...無理な様でしたら、山下さんに差し上げます。とあって、私は喜んで「ふくろう文庫 」に入れた。

この屋敷は、明治30年頃この土地を入手した貿易商の河内寅次郎なる人が建てたもので、元々は藤堂高虎の重臣・渡辺勘兵衛が住んでいた所から、「勘兵衛屋敷」の名で呼ばれている由。そのあと荒廃した後を受けて、寅次郎が一件農家を思わせる数奇屋を造ったのだが、成るについては構想10年、招ばれて力を貸したのは「千家十職」なる職人たち。そして、この職人たちは千利休を祖とする千家と共に、茶道具を作り続け手て来た、金物師、袋師、茶碗師、釜師などなど。司馬が一見して「ただごとではない」と感じた建物の全貌がここに明らかになった。栗原女子のお陰だ。多謝多謝。

ところで司馬は大洲の次に宇和島に行く。目ざすはそこの卯之町(うのちょう)この卯之町には、その昔二宮敬作が住んで居た。敬作(1804−1862)は蘭医シーボルトが「ケイサキ、ケイサキ」と呼んで愛した弟子だ。私も、シーボルトの弟子の中では、高野長英、小関三英、そしてこの敬作が一番好きだ。「うわじま物語2

かの「蛮社の獄」なるもので、長英は捕われの身となり...だが脱獄して、結局補史に惨殺され、小関三英は捕われることを恐れて、自分から命を絶ち、敬作も「〜其の上、島原温泉山の高低など測量し、蘭人に咄すなど、不届の儀に付…」で一時は長崎奉行所の牢屋に放り込まれた。ここでは島原山となっているが、一節には、敬作はシーボルトから頼まれ、高度用バロメートルなる機器をつかって富士山の高さを計り、標高を3,794.5mとはじき出した。これは実際より18.5m高いだけの大変な精度だった。

さて、長崎を追放された敬作は、卯之町で開業し、シーボルトの娘イネの世話をみる。イネはシーボルトと、日本妻お滝の間の子だが、元々「失元イネ」と名乗った。失元=シーボルトな訳だが、伊予の殿様・伊達宗城は、これを知って「本を失うとは縁起でもない。そもそもお前の先祖は誰だ」とイネに訊くと、母方の先祖の甚五郎は楠木だと言ったので、宗城は、それでは「楠木にせよ。それにイネは伊篤とせよ」と、伊予の一字を与えた由。

更に又、イネは産婦人科を学ばんと、敬作の計らいで、シーボルト門人の岡山在の石井宗謙の所に行くが、不幸、宗謙に犯されて女児を生み、この子にイネがつけた名は、愛情も無き結果の子だから、とて「タダ」と言うすさまじい名を付けるのだが,宗城は「それはまずい,タカにせよ」と言い自分の侍女とした。「幕末維新の宇和島藩3

私はこのけしからぬ石井宗謙については,既に「本の話・続」の第294回「“宗謙”も浮かばれます」で書いたから興味のある方はどうぞ。

因みに,宗謙の長男の信義は,大阪医学校校長に成って,後年イネとタカの面倒を見た由。父親より数等,上等な男と見えて、聞いてこちらも救われる。

さて敬作を愛したシーボルトは,敬作をが見つけた新種の植物に「ケイサキアワモチ」と名付ける程だったが、敬作もこれに応えて,イネ・タカの面倒をよくみた。敬作の指示によってイネに蘭学を教えたのは村田蔵六こと、後の大村益次郎だ。益次郎は,明治2年に山口出身の神代直人らに襲われ,敗血症で死ぬ。この時お雇いのボードウィンが益次郎の脚を切るのだが,その時助手を務めたのが益次郎の師・敬作の甥たる三瀬周三だったから,益次郎ももって瞑すべしだ。

さて、私は二宮敬作の伝記をずっと読んで来たが,先頃、私が知らずにいる地元の刊行物は無いかと思って,栗原女史に訊いた所,彼女が見つけてくれたのが,門多正志の「二宮敬作と関係人物」で、宇和町の教育委員会と郷土文化保存会の発行成るものだった。ありがたい本で,新知見に満ちている。「二宮敬作と関係人物4

因みに,栗原さんが住んでいる松山市からは,蘭学者青地林宗が出ている。我が国最初の物理学書「気海観瀾」を書き、その四女宮子は高野長英の妻となり...という人物だ。「気海観瀾」については、「本の話・続」第252回・第253回を見てくだされ!!。

私は俳人・栗原恵美子女に感謝してこの文を書いている。「俳人」と言うと恵美子女は嫌がるが,司馬の言う「松山は江戸期から俳諧の一大淵叢であり,町方にいたるまで詞藻のゆたかな者が多かった~」所で,俳句をたしなむ彼女を,私はやはり「俳人」と呼びたいのだ。お許しあれ!!


  1. 隈研吾.臥龍山荘ー水郷の数奇屋.エス・ピー・シー(2012) []
  2.   谷有二.うわじま物語.未来社(1986) []
  3. 平田陽一郎.幕末維新の宇和島藩.愛媛県文化振興財団(1976) []
  4. 門多正志.二宮敬作と関係人物.宇和島町教育委員会他(2001) []

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