第075回 「大漢和辞典」を完成した諸橋轍次博士の生涯

三人連れの男子学生が来て「ことわざ」の辞典はないかと聞きます。一番大部な小学館のも含めて、種類示すと、「イヤ、これらはもうみたが、探す言葉が出ていない、他にないか」と言います。
余程、むつかしいか、珍しい言葉なのだな、と思いつつ、「一体、どんな言葉か」と聞くと、「火のないところに煙は立たぬ、だ」と答えたのには仰天しました。
内心「アホジャナカロカ」と思いましたが、これも質問の中と割り切って、「それなら、辞典に出ていない筈はないよ」と言ってから、ハッと気付いて、試みに目の前の辞典を引かせてみると、案の如く(=推量の通りに)、「火」の箇所を素通りして、「火のない~」を探し始めました。

つまり、「火のない~」の文句そのままを引こうとしているのです。これでは見つかる筈がない。それで引き方、索引の使い方等々を教えましたが、全く「ヤレヤレ」です。
しかし、当今の学生は、事程左様に、大体が辞(事)典を持たず、引かず・・・で、事が漢字となると、読めぬのは素(もと)より、漢和辞典の引き方さえろくに知らずで、まことに哀(あわれ)な位です。

それはさておき、私の勤め先の室蘭工業大学は、アメリカ、中国の2、3の大学と姉妹校提携をしています。
相手校からの客が、図書館にも足を伸ばして来た時、アメリカはおいて、中国の場合には、私は、彼らを或る辞典の前に案内します。そして、「このような辞典は、御国にも御ざいましょうか」と、敢えて聞きます。
文科系の人ならば反応が異なるかも知れませんが、客は理工系の人ですから、殆どの人が、この辞典をみたあと「いや、これ程のは・・・・」と言った類のせりふを発し、驚歎の面持で、押黙ります。この或る辞典とは、諸橋轍次の「大漢和辞典」全13巻(大修館書店刊)です。我が国で、江戸時代に使われた種々の漢字字典の中、一番好評を博したのは、「康煕(こうき)辞典で、清(しん)の聖祖、康煕の時代55年(1716年)に作られたものです。

これは収録字の多さと、画順配列が整然としていることで、今日の漢字字典の体例の規範となったものですが、全ての点で、この字典をしのぐのが「漢語辞典」としては、世界最大の「大漢和辞典」なのです。なにしろ、この辞典、「康煕字典」の親字が47,000字なのに対して、親文字49,700、語彙(ごい)、熟語(じゅくご)、526,500を収める大辞典です。その上、この大変な辞書は、完成までに約35年の年月と、著者側、出版社側合わせて、258,347人の人手を要した大事業の結実なのです。年月と人でのだけで驚いてはいけません。年譜をみれば、大変さが、更に実感されます。

昭和3年(1928)6月(46才)「大修館書店との間に大漢和辞典編案の約定なる

昭和18年(1943)9月(61才)「第巻発行」それが「昭和20年(1945)2月(63才)大空襲により、大漢和辞典全巻の組版、及び資料を焼失

とくるのです。この困難を乗り越えて10年後

昭和30年(1955)11月(73才)改めて大漢和辞典第巻刊行

となります。

その間、諸橋は失明はする、奥さんには先立たれる、・・・と言った具合で並みの大変さではありません。しかし諸橋と協力者の大修館店主、鈴木一平は、不屈の精神で々の障碍(しょうがい=さまたげ)をしりぞけていきます。
さて、諸橋の故郷、新潟県南蒲原郡下田(しただ)村では、政府の提唱する「ふるさと創生」に応えて、「漢学の里、諸橋轍次記念館」を作り、更にその事業と平行して、大橋定雄執筆の「諸橋轍次博士の生涯1」を発行しました。
これが素晴らしい。

と言うのも、諸橋の門下、鎌田正文学博士の序によると、大橋は、~夙に恩師に親炙してその謦咳に接し、眷顧誘掖を蒙ることが少なくなかった人です。(平たく言えば、~つとに(早くから)恩師にしんしゃ(したしく接して)しそのけいがいに接し(お目にかかり)、けんこ(ひいきにされ、可愛がられ)ゆうえき(みちびき助け)られる事が少なくなかった人です。)この人が、2年有余の才月をかけて本書を完成したのです。その結果は「多岐多彩」(たきたさい=多くの面で色どり豊かな)な「碩学大儒」(せきがくたいじゅ=すぐれた儒者にして大学者)の生涯が見事に美しく、力強く描かれました。読、心が感動で満たされます。
更に、漢字、漢文の持つ魅力が全頁ににじみ出ていて、優れた文章を読む幸せ、喜びを満喫できます。

さて、この本は大人向けとして、子供向けには岡本文良の「ことばの海へ雲にのって2」を紹介しておきましょう。
諸橋のみならず、出版社主の鈴木平についても存分に書かれたいい本です。親子で、或いは先生と生徒で、この2冊を読んで、更に「漢学の里」を訪ねたら、どんなにか知的で、情緒に満ちた有益な旅になることでしょう。
私も早く行ってみたいものと思っています。

梅雨が明けて、愈々暑い夏です。皆様、御健康専に!!


  1. 漢学の里・諸橋轍次記念館,諸橋轍次博士の生涯,新潟県南蒲原郡下田村役場(1992) []
  2. 岡本 文良(著) 高田 勲(イラスト),ことばの海へ雲にのって―大漢和辞典をつくった諸橋轍次と鈴木一平,PHP研究所(1983) []

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