`00.6.2寄稿
私は、栄高校の2年まで硬式野球の選挙で、3年生になると、受験が控えているので退部したが、足はこれでも遅い方ではなかった。だから運動会はちっとも苦にならず、又、3等以内に入らぬと言うことは、先づなかった。
武場小学校の時には、グランドが小さかったから、鉄道官舎があった開運町をぬけて山を登り、母恋側にある公設グランドで運動会をするのが常だった。運動会のための予行演習なるものもやったのだろうが、そのことは余り記憶になくて、覚えているのは、遊び仲間と何組かに分かれて、官舎街の中の道路を四角に区切って境争していたこと、或いは追直浜に出かけて、旧北大海藻研究所の前をスタート地点にして、砂浜を往復する競争を繰り返していたことだ。
ところで、運動会と言うと、大人のことで、2つ思い出すことがある。
1つは、各町内、大人の出番と言うことになって、何米だったかはともかく、徒競走の時に、今の「塩釜-うなぎ屋-」の前の角あたりに、長縄さんと言う「ちょうちん屋」があって、この人は年中座って、「ちょうちん」や「傘」の張り替えをしていたが、この人が速かった。
角をまがって1何米行くと、小野寺と言う、もと人力車屋があって、・・・・そこの車夫が出場して1位になると言うのならわかるのだが、先にも言ったように、四六時中座って、足もおとろえているであろう人が、あにはからんや、スイコラ、スイと走って1位になったのにはびっくらした。
もっとも、車夫が1位になったのでは、「板妻」粉する「無法松の一生」の室蘭板でむしろ、変な話といえようが。もう1つ覚えているのは、我が父のことで、父は当時、武場小学校のPTA会長をしていたが・・・・・あれは何と言う競技なのか?・・・・走っていって札を拾い、又走っていって一線に並べられているものの中から何かを選んで、そこにない場合には観客から借りて・・・と言う競技だったが、父は走って札を読みとったかと思うと、又走って手にしたのが何と釣り竿で、結果、父は1位となったが、その晩、晩酌をしながら、父が嬉し気に見せてくれた小さな賞状には、「1位、太公望(たいこうぼう)」と書いてあった。
「太公望」とは・・・周代の斎国の始祖、初め、渭水の浜に釣糸をたれて世をさけていたが、文王に用いられ、武王を助けて殷を討ち、天下を定めた。・・で(この事故から)釣師の異称・・と広辞苑にでている。
父の拾った札には「太公望」とあって、それで父は「釣竿」を持って走った訳だ。「太公望」なる言葉をこうして私は知った。さて、そんなこんなの想い出のある運動会だが、これは世界に類を見ない日本独特のイベントだそうで、これが誰かによって、如何なる意味を持たせられて、如何なる歴史を歩んで来たか、をあれこれ論じた面白い本が出た、①1 である。成程、成程!!の本だ。
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次は NHKでは単発ドラマとして「おいね〜父の名はシ-ボルト」をやったそうで、シ-ボルトお滝に生ました混血のおいねには宮沢りえが粉しているという。
30年も昔、TBSでは「おらんだおいね」なるタイトルで2ヶ月つづけたが、その時は丘みつ子がおいねをやった。その丘が、2、3日前の新聞ではドラマで消防士??に粉すると出ていた。
おいねに関しては、児童物で竹田道子の「父のさじ-シーボルトのむすめの物語-」があって、私は好きだが、今は絶板なので②「蘭方女医者事始 シーボルト・イネ2 」をあげておく。よく出来た本だ。
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もう1册、羽仁説子の「シーボルトの娘たち3 」新日本出版社(¥1、262)もいい本だ。今年はオランダと我国の修交400年目の年だ。これを桟に是非、日本近代化の恩人、シーボルトとその妻子の物語をどうぞ!!
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シーボルトと同様、日本を世界に紹介してくれたポルトガルの文人がいる。モラエスだ。日本人と結婚し、1929年「西洋乞食」なんぞと言われながら徳島で死んだこの人については、戦前戦後に、花野富蔵他の書いたものがあるにはあるが、いずれも、不備なものが多かった。東京外語大教授の手になる④4 が、今迄のもので一番いいと、モラエス文献を集めて来た私としては思う。資料のつまったいいだ。
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⑤5 は明治物大好きという若い人(42才)の本、同じ趣向をお持ちなら、まことに面白いですぞ。
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