`07.6月寄稿
我妻さんに誘われて「眉山」を観て来た.宮本信子が出る。この映画、私はまるっきり事前の知識がなくて、と言うことは、まるきり観たいと思っていなくて、それで誘われた時にも「1人で行ってこい」とは言いかねて、映画関係のファイルを出して、今迄映画館に行くたびにもらって来たパンフレットと映画評を出して見たが、どう言う訳か「眉山」関係はゼロで、で、つまり事前の知識は持ちようもなかった訳だ。あとで聞くと、我妻さんは美容院かどこかで、この映画の試写会の記事が載っている雑誌を読んで知っていたのだった。それによると、皇后の美智子さんが宮本信子の手を握って「すばらしかった」と言ったとか、どうとかで....
それはとともかく、いい映画だった。さだまさし原作と知って「へー」と思い、宮本信子の演技に「ホー」とも思い...で、泣けた。
ところで「眉山」だが、事前の知識がなかったけれど、これはきっと徳島の町中にそびえている山のことだろうなとは思った。一方で、いや待てよ、ひょっとすると明治の作家・川上眉山でも扱った映画なのかな?と、ちらっと思ったりもしたものであったけど....やはり「山」の方であった。
映画の方は、世に知られた例の「盆踊り」の所でクライマックスになるが、その前、松嶋菜々子と大沢ナントカと言う二人が、デートで眉山に登っていくシーンでケーブルカーが出て来て、私が思い出したのは、この眉山の山頂にある「モラエス」の記念館のことだった。
数年前私が行った日は、猛烈に暑い日で、「モラエス記念館」の留守番をしている爺さんも、ぐったりと言った感じで、椅子に寄りかかって半分寝ていたが、こりゃ無理もないわと思える程、気力も何も消え失せる暑さだった。
不思議でならぬが、よくこの暑い所で、あの激しい踊りをやったり、甲子園出場の為と言えば、野球をやったり出来るものだ...が、乗ったタクシーの運転手が言うには、不景気でダメだ、と。
そう言われれば、夜なぞ駅前も、その先にの延びる道路にも人影は殆どなくて、朝は朝でホームレスみたいのが結構、駅の中にたむろしていて....と、景気良さそうではなかった。此所で思い出したが、徳島には流しのタクシーがない。一々電話しなければならぬのだ。
それはともかく、「モラエス」に話を戻すと、徳島を世界に知らしめた知日派として、知るものには、ラフカデオ・ハーン(小泉八雲)と、ピエール・ロチと並び称されるこのポルトガル人も、今では世人の関心を魅いているとは、とても思えぬ。
私がモラエス館を見ている2時間程の間に誰も来なんだ。それに何か目新しい、或は地元でなければ買えぬ様な「モラエス伝」でもあるかなと思ったけれども、これも全然なかったので、ガッカリではあった。
さて、ヴェンセスラウ・モライス(モラエスと本人が記入していたもの)(1854-1929、嘉永7〜昭和4)はもともと海軍軍人で、日本に来てから神戸駐在の総領事となった人だ。
ここ徳島出身の福本ヨネを知り、その又ヨネの縁で斉藤コハルを知り...となって徳島に移り住んだ。モラエスは祖国も地位も捨てて、徳島に移り住んだ訳だが、その理由をこう述べる。「生者から逃れよ、徳島へ、お前になつかしい名前を思い起こさせる、お前に追慕の念を抱かせるあの墓のそばへ行け。感情生活―お前になおも地平を開くことの出来る唯一の生活ーについては、人はふたつのやり方でしか生きることはできない。希望によってと、追慕の念によってだ。人生の旅路のほぼ終わりにあってすべての希望が消え去る時に、追慕の念に慰めを求めることは当然だ」
こうしてモラエスは徳島へ来た。神戸で娶って愛(めとっていと)しんでいた今は亡きヨネの追慕に生きるために。
こうしたモラエスの姿を詩人佐藤春夫は「情痴の詩人」ととらえて、こう説明する。「亡き愛人と新しい愛人を愛する余り、彼女等の故郷の山水の秀麗な霊に接し、更に徹底して彼女らを生んだ民族のすべてを敬愛したのである」「情痴の〜」と言われると一寸きついが、それは否定的な意味を含まないのであって、誠、至言と言うべきだ。
ここで「新しい愛人〜」と言うのは、コハルの事だ。「情痴」と言えば、これ又、世上「情痴耽弱の歌人」と言われた吉井勇も、モラエスに共感すること強く、次のように詠った。“モラエスは 阿波の辺土に死ぬるまで 日本を恋ぬ 悲しきまでに” “恋びとの おヨネを生みし阿波の国 なつかしみつつ 来しやモラエス”
さて「町の人口の半分が、老いぼれ爺さんも、幼い子供も踊り、誰もがうち興じ、死者を賛(たた)えるえるのです。...」とモラエスが書いた阿波踊りの熱狂の中で、映画「眉山」の純愛は完結いる。いい映画だった。
「モラエスの旅1 」
「モラエスの日本随想記徳島の盆踊り2 」
「異邦人モラエス3 」
「評伝モラエス「美しい日本」に殉じたポルトガル人4 」
「モラエス残照5 」