`00.8月11日寄稿
隣の苫小牧市の博物館で、8月5日から、9月3日まで、特別展「八王子千人同心と幕末の勇武津」をやっているので6日日曜日に行って来た。入場料は大人300円「はちおうじせんにんどうしん」とは元甲斐(山梨)の武田家の残党で、家康に隋って、八王子に住みながら、甲州口の守りと、日光、江戸の火の番をつとめた半士半農の団体である。それが、1799年(寛政11年)に東エゾが幕府の直轄(ちょっかつ)になると千人頭の原半左エ門なる者が、エゾ地の屯田農兵、つまり、警備と開拓とを計画して、移住の願いを出し、翌12年に100人で北海道に来て、半左エ門は白糖、弟の新助は、勇武津(勇払)に分屯した訳。
しかし、結果から言うと、彼らは気候風土に馴れることが出来ず、病死者続出して、わずか3年余でこの試みは廃止された。①「攘夷地場所請負人1 」
何しろ25%が病死と言うのだから、悲惨なものだ.中でも気の毒なのは、河西祐助、梅の夫妻で、この梅はエゾ地に永住した最初の女だったが、わずか25才にして、2人の幼児を残して、死没する。祐助が、梅を偲ぶ「哭涙魂碑(こくるいこんひ)の文は次の如し。
萬里の返に遊びて功未だ成らず
阿(わが)妻ひとたび去って旅魂を驚かす。
児を携えて慟哭す。 慟哭(どうこく)=大声をあげて泣く
穹廬の下尽くし難し 穹廬(きゅうろ)=天幕=テント
人間長別の情
さて、私が苫小牧まで出かけたのは「八王子千人同心」への関心はもちろんだが、もう一つの関心は「山田文右衛門一族」対するもので、この山田は勇払に大いに関係のある人なのだ。
例えば、 勇払↔ウトナイ湖↔美々↔千歳↔石狩のコースを昔は、「勇武津越」と言っていたが、この32里(130km余)の道を改修したのが、山田だ。(8代目)
因みに「ちとせ」の旧名は「シコツ→シ・コツ=大沢」だったが、箱館奉行の羽太正養(はぶとまさやす)が、「シコツは、死骨で由々しい名前だ、此処のところ鶴が来るから、目出たい千歳にしよう」とて改名されたのだ。もっとも羽太ではなく、戸川安論(やすのぶ)との説もある。
山田は又、昆布養殖の元祖的存在であって....
文久2年6月(1862)、沙流、勇払を巡回していた時、ホロナイの浜で、摺鉢(すりばち)の破片に昆布が生えているのに気付き、それにヒントを得て、岩石を海に沈めるいわゆる「投石法」を考え出し、昆布の増産に成功したのだ。勇払境のフィバブ崎から新冠までの間だけでも、2万7千個の石を投じたと言う。
てなことで、私はこの特別展を楽しんできた。
この山田と、勇払、その他について興味を感じた人には①を勧める。著者フラシェムは札幌のアメリカン文化センターの館長だった人だ。
又、山田は「北前船」の業者だったが、この「北前船」の活躍ー営んだ人々、扱かわれた品々、航海の様相、ひっくるめて北前船の盛衰ーについて分かりやすいいい本がある②だ。「日本海こんぶロード北前船2 」この本で知ったが、室蘭海岸町の吉沢商会も、北前船主の出だ。
[tmkm-amazon]4890102809[/tmkm-amazon]
「特別展」と言えば、先月20日の休日に、「市立小樽美術館」で「前衛と反骨のダイナミズムー大正アヴァンギャルドからプロレタリア美術へー」を観て来た。③ 「1930年代ー青春の画家たち3 」
[tmkm-amazon]4915659666[/tmkm-amazon]
出品されていた画家のうち私が、画集もしくは作品を持っている人を列挙すると、
小川芋銭、 柳瀬正夢、 矢部友衛、 須山計一、鈴木賢二の5人だった。 全体的な感じを一からげにして言うと、乱暴な論で悪いが、こう言う「前衛」と称するものでも、日本人の特性と言うか...随分世界から学んでいた、と言うよりは、真似していたんだなあ、と言うもので、余り関心はせなんだ。 とは言っても「何だこんな程度か」と無視は出来ぬ。...ので知りたい人には③がいいと思う。殊に第二部の「プロレタリア美術同盟の仲間たち」が。
さて、今や、立秋とは言え、まだまだ暑いが、我が庭には毎日蝶が入れ代わり立ち代わり飛んできてくれる。それも「キアゲハ』「アゲハ」「オナガアゲハ」「カラスアゲハ」「ミヤマカラスアゲハ」などの大きな部類がゆらり〜とくると嬉しさも倍となる。
何故そんなに来るかと言えば、百合を植え、山椒の木をふやし...と蝶の来たい庭にしたからなのよん。
鳥、蝶、蛙と..色々来て欲しい人は④を読んで来年にそなえることお楽しみは来年だ!!
④「園芸図鑑4 」
[tmkm-amazon]483401374X[/tmkm-amazon]