`01・7月18日寄稿
大江健三郎の語るところによると、彼は10才の時に、マーク・トウェインの「ハックルベリィ・フインの冒険」を読んで感動し、「自分の生き方は‘よし、 地獄に行こう’というやり方にしようと思った。」そうだ。
この所を一寸説明すると、小説の中で、ハックは逃亡奴隷の黒人ジムと行を共にするのだが、この当時(1840年頃)は、アメリカで奴隷制度が健在で(と 言うのも変だが)、奴隷が逃亡することと、逃亡した奴隷を助けることは、共に違法であった。
言い換えると、逃亡奴隷を何らかの意味で助けることは、法を破る行為であって、故にそれを犯すことは厳罰に処せられることを意味した。さて、ハックは、 ジムの追跡隊の存在に気付くと、ジムに「起きろ、ジム、しっかりしろ!一分の猶予(ゆうよ)もねえぞ。おら達に追っ手がかかってる!」と知らせる・・・即 ち、“They’er after us!”
ところで、ハックは浮浪児と言えども白人社会の一員であって、ジムを助けることは白人優越の「法と道徳」にさからうことになる。
白人、黒人の別なく、人間たらんとすれば、=ジムを助けようとすれば己が身が危ない、と言って白人たらんとすれば、ジムを見殺しにすることになる。
法を取るか人間本来の姿に立つか???
岐路の立たされた自然児ハックが選んだのは、白人社会の法に従う良心よりも、人間本来の心による道であって、この時の彼の言葉が、大江の感動したもの で、即ちハックは、まあ、ジムと一蓮托生(いちれんたくしょう=行動、運命を共にすること)たるべき決意をもって「よし、そんなら、おらは地獄へ行く (All right,them,I’el go to hell)」なるせりふをはいて、ジムと逃亡を続ける訳。
大江はこの所で、わずか十才にして、自分の生き方はハックにならって、「決断する時は、よく考えて、勇気を持って決断しよう」と決意した、と言うのだ。 偉いもんだ。
ところで私は、過ぐる6月29日(金)、苫小牧市中央図書館で、読み聞かせグループのお母さん達、教育関係者、図書館関係者を前に、「ハックルベリー・ フィンから魔女へ−ハックは魔女の甥(おい)だった?!−」と題して講演した。
主旨は・・・・マサチューセッツはセイラムで起きた魔女狩りから話を始めて、現在でも、起きている本狩り−その一例が、ハックルベリーを公共図書館から 追い出す、又は進化論を学級で教えることは、神をないがしろにするものだとする「ファンダメンタリスト」なる狂信者達が、公教育の場へ進出して、授業内容 に口を出す、など−にいたるまでの、アメリカでの一連の思想弾圧について語ったのだった。
事の性質上、アメリカ政治史、思想史上の最大の汚点と思われる「マッカーシズム(マッカーシズム=米国で第二世界大戦後にマッカーシ上院議員が推し進め た狂信的な反共主義、赤狩り)」にも触れて、その嵐の中で良心を守りぬいた人々、脅かしに負けて良心を売りわたした人々も紹介した。
初耳の事が多かったかして、講演は幸いにも好評(のよう)だった、が、そのあとに面白いことが起きた、と言うのは、今回の講演会を主催したお話「オル ゴールの会」の代表、墨谷真澄さんが、私の「ハッフルベリー・フィン」の話に刺載されて—朝日新聞社が、週刊形式で出している全120冊の「世界の文学」 で、「南北アメリカ?−4/マーク・トウェイン、ストーほか」を、読んでみたところ、私が話した様なこと・・・・ハックルベリー・フィンが葉書にされたこ となど・・・・が一切出てこないので、編集長に、その訳をたずねたところ、帰ってきた返事は、甚だたよりないもので、・・・曰く、「“〜マーク・トウェイ ンに限らず、どの作家でも、限られた紙数でその業続等を紹介しなければならず、本来なら触れておいた方がいいことでも、やむを得ず割愛することがありま す。〜”」と言った調子。
立場はわかるが、私としては、アメリカ各州で、連邦最高裁のワイセツ定義に該当しない本や雑誌までも、販売を妨害しようとする動きが多々あって、「ハッ クルベリー」とても、“マーク・トウェインは人種差別主義者だから”と言う、言いがかり的理由で、禁書のリストに入れられている位は、説明されて然るべき ではないか、と考える。
現に、「″ハック?を学校図書館から追放せよ」と言う一部の父兄の抗議に立ちあがる司書やら先生やら心の広い父兄達の動きを描いたナット・ヘントフの 「誰だ、ハックにいちゃもんつけるのは1 」なる本もある位だ。
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この本原題は「The day they came to arrest the book」(本をとらえに彼らが来た日)だ。と言う訳で、?と?読んでみない?国民的作家と言われるトウェインの位置がわかると同時に、アメリカと言う、 ケッコウ常規から外れる国の諸相が分かる、と言うものだ。まあ「ハックルベリー・フィン」は児童文学でないことだけは、わかってちょうだい。
又々ところで、児童文学と言えば、グリムやケストナーの訳名だった高橋健二・・・・あの人・・・わしゃ好かん。それに、リルケ学者として通っている星野 慎一、これも、わしゃ好かん。
今、話題の「米百俵」の話を書いたのは東大独文出の作家、山本有三だが、この話を山本に教えたそもそもの人は、長岡出身の星野だ。
高橋、星野を好かぬ訳は?に詳しいのだが残念ながら絶版・・・残念!!と思っている所へ?が出た。この著者、皮肉っぽく、一ひねりして物を言う所があっ て、読むに疲れるが、高橋健二以下の東大独文科出身の面々がやって来たことはよくわかる。お話の会のお母さん方、よく読んでみてちょうだい。
- ナット・ヘントフ誰だ、ハックにいちゃもんつけるのは.集英社 (1986) [↩]