2018.11.14寄稿
新聞の切り抜きを整理していたら、下にはったものが出てきた。遅ればせながらこれにについて触れよう。
一読、揚げ足をとる訳ではないが、まことにこころ洗われる文章だ。主人公の「あらえびす」事、野村胡堂は良くできた人だったらしく、例えば、「銭形平次の心ー野村胡堂、あらえびす伝」(文芸春秋刊)を書いた藤倉士郎も「長い年月、たったの一度も夫妻から荒い言葉が出たことはない。素朴で謙虚で、お金の匂いのしない夫妻であった〜」と「あとがき」で書き、さらに野村の門人の田部井石南なる人の「〜あの、世にも稀な清純で平和で温かな雰囲気のご家庭〜」という感謝の文章を同書のオビにのせている位だ。それに嘘はなかろうーと言いたいが、実はその平和で温かな云々を裏切る隠された事実がある。英米を相手にした太平洋戦争中の出来事だ。私はこのことをすでに2014年(平成26年)9月14日、室蘭民報連載の「本の話」第659回で指摘した。そのコピーをのせる。『「軽蔑する人間」胡堂』がそれだ。詳しくは次ページを読んで欲しいが、要点を言えば、「クラシック音楽好き」で2万枚のレコードを蒐集した胡堂は、その「クラシック音楽」を凌辱する事甚だしきことをやってのけた。
これまた要点を言えば「聖戦」つまり鬼畜米英との戦いに勝利する為には、鬼畜共の作った音楽=享楽のみを目的とする音楽なぞは排除して、我が民族の魂を響かせねばならぬ。
そこで最初にやるべきは、「米英の音盤=レコードは、1枚残らず叩き割って軍需品の塗料にでももち用べきである」この時局便乗主義者の口車に乗って、レコードを叩き割る馬鹿がいたかどうかは知らず、確かなことは、当の言い出しっぺのの野村自身が,その言を実行せず、つまり割らず、その膨大な量のレコードは記念館にある。この愚かな言を残した野村がバッハの肖像に面と向かえたとすれば、誠、鉄仮面な男と言わねばならぬ。
毎日毎日、世界中で色々な事が起きて、退屈なぞしている暇もなしだが、10月末のニュースにもびっくりした。スペインはバルセロナにある例のガウディの「サクラダ・ファミリア」教会のこと。これ1882年着工なれども、教会が市に税金を一銭も払っていなかったと言うのだ。その理由は、ガウディが最初に建築許可を得た町役場が、その後バルセロナに吸収合併されてしまい、そのどさくさ(?)で許可更新せずーで今に至ったというもの。これを是正(?)すべくー交渉(市と教会)が始まり、先の10月末、教会が未納の46億7千万円を払う事で決着したと、ユーローにして3,600万ユーロー。私は高所恐怖症で、大学2年の時だったか、天竜川の最上流のなんとか村の吊り橋の真ん中で立ち往生(実は四つん這い)した事があるが、内部の階段を登るのは抵抗がなくて、この「サクラダ・ファミリア」を昔登った事がある。随分と階段はすりへっていたが、上まで行って塔から塔へと渡り、また歩いて戻った。ちなみに言うと、パリの「ノートルダム寺院」も歩いて登った。ガウディと言うと、昔早稲田にいた入江政之なるガウディ研究家が、どうした風の吹きまわしか室工大に赴任してきた。1年いたか、2年いたか忘れたが、その時この著名なガウディ研究家が室蘭の町おこしの方法如何を聞かれての答えが「茶津山から測量山へケーブルカーをわたして、室蘭市を一望出来るようにする」だった。聞いて私は、ちっちゃな室蘭市街は八幡神者、測量山、測候所の山、どこからでも見えるのにケーブルカーは要らんわなと思った事だったが、私のみならず誰も感心しなかったと見えて、未だにケーブルはぶら下がっていない。その時の感想を一言で言うと、「ガウディの天才を祖述出来てもオリジナルの発案は出来ないものなんだな」であった。ここで栗津潔(美術評論家)による「ガウディ賛歌」なる映像を出そうと思ったが、DVDの時代にカセットでは通じないよと言われたので止めにして、鳥居徳敏の「アントニオ・ガウディ1 」を出す。日本人の書いた伝記として一番と私は思う。
「空と風と星の詩人〜尹東柱(ユンドンジュ)の生涯〜」(韓国映画)がようやくDVDになったのですぐ借りて来た。尹東柱は今韓国で最も愛されている詩人(だとのこと)。尹と彼の従兄弟の宋夢奎(ソンモンギュ)が日本の朝鮮植民地下、朝鮮独立運動に身を投じ、来日して学びながら・・・死に至までを、尹東柱の美しい上にも美しい詩を配しながら切なくも強靭に描き出す。金賛汀「抵抗詩人尹東柱の死」(朝日新聞)を読んだのは1984年の刊行直後、友人の千香子から電話で「出た」と知らされてだ。去年10月には京都は宇治に尹東柱の記念碑も建った。朝鮮語の使用禁止、創名改名etcと過酷な植民地政策に逆らい「死ぬ日まで空を仰ぎ、一点の恥辱(はじ)なきことを」と書いたこの詩人をまだ知らぬ人に、この映画と共に「生命の詩人・尹東柱2 」を紹介しておこう。