第401回(ひまわりNO217)  改元に関わる人等の著書

2019.7.10寄稿

元号が「令和」に定まるまでと、定まってからと世の中大分騒がしかったが、ようやく落ち着いてきたようで、各紙もまとめ的記事をのせるようになった。そこで今回は各紙の特集記事なを参考にしつつ、「元号」に関わりを持った人の著書に目を向けて、それを紹介しようかと思う。

毎日新聞に出た話で、私が一番面白かったのは「元号と皇室の歴史を振り返る際に欠かせない一家がいる」と書かれた「宇野家」の話。初代が東大名誉教授宇野哲人で現天皇と秋篠宮2人の名付け親で、かつての2人の幼少時の「論語」の先生。2代目がこれまた東大名誉教授の宇野精一で中国哲学者。3代目が中央大学名誉教授の宇野茂彦、同じく中国哲学者で宮内庁の書陵部の委員。2代目は「平成」を決めた時に最終3案に残った「正化」を提案をしたそうな。漢学者一家のこの3人の中で、実は私は余り好きでないのが2008年死去の2代目。何故なればこの人「日本会議に」につながりのある人だった。「日本会議」とはご存知、1997年に結成され「草の根保守主義」を標榜しつつ、安倍政権を支える、改憲、右翼の団体だ。まあ、儒教を旨とする漢学者の一家から左派が生まれる筈もないから、2代目が右翼だとしても別に驚く必要はないけどね。まあ、右翼の話は措いて「浩宮徳仁」「礼宮文仁」の名付け親でこの2人に「論語を」を教えたと言うことから、まづは宇野哲人の「論語新釈1 」を出そう。

「論語」なんて古くさいものを誰が読むかという人もいようが、それがそうでもない。例えば孔子に弟子が問う。「政治でもっとも大切なものは何か」孔子は答える。「言葉を正しく使うことが統治の基本である」と。(子路=しろ第13)この孔子の答えを安倍以下の閣僚に当てはめたらどうなるか。嘘に嘘を重ね屁理屈を並べ、議論を拒否する安倍姿勢は、孔子の言う「統治の基本」から既に大きく外れているということが分かる。「論語」を手にとってみるべし。ところで私は日常的に「論語」を宇野本を含めて5種、居間の棚に置いて使っている。注釈者は金谷治、貝塚茂樹、下村湖人、加治伸行。最後の加治は私と同い年の大阪大学名誉教授だが、その「論語」注釈は別として、私は今この人を「愚物」だと思っている。と言うのは・・・1995年に文芸春秋が発行元の「マルコポーロ」なる雑誌に「ナチのガス室はなかった」と題する内科医西岡昌紀の論文が載った。これは直ちにイスラエル大使館からの抗議を受け、同志は廃刊、社長の田中健吾は辞任、編集長の花田紀凱は解任となった。馬鹿を絵に描いたような世界史を無視した愚かな事件だったが、この時の花田が生きのびて、今「HANADA」とか「WILL」とか過激な右翼の雑誌を出している。そして加治は先頃「もともと花田編集長の指揮の下、自由に書かせていただき、愉快な年月であった〜」との前書きを付けた駄本「マスコミ偽善者列伝」を出した。全編、池上彰、島田雅彦、沢地久枝、なかにし礼、寺島実郎、前川喜平などなど、安倍を批判する者達への的外れの攻撃の文章の羅列だ。「言葉を正しく使うことが統治の基本」と説く孔子の「論語」の解釈をする身が、どうしてそうでない安倍とその一統に、かくも寄り添った文章を書けるのか、私には不思議でならない。朱熹の「論語序説」が出典だという「論語読みの論語知らず」なる言葉がある。「論語を学んで、読むことはすらすら出来るが、内容が少しも身につかない=物事の理屈はよく知っているが、少しも実行できない者のたとえ(成語林)だが、ひょっとして加治は、論語をもっと広めようとして、自ら仮に「反面教師の」の姿をとっているのだろうか・・・つまり「論語」をちゃんと読まないと、私のようになりますよ、気おつけなさい-と言いたいのかな。(この加治のことについてもっと知りたい人は私が室蘭民報に連載している「本の話」の第773回、2019年2月23日付け「おぞましい言論事件」を読んでくだされ。)

「元号」に関わった漢学者があと2人いる。その一人は石川忠久、元二松学舎大学長で漢籍研究団体「斬文会」(しぶんかい)の理事長。今回の改元で「万和」(ばんな)を出したが不採用となった由。石川は著作が多い人で、例えば私が日常漢詩と来ればまず一番に開く「漢詩鑑賞辞典」(講談社学術文庫)は石川の編纂。

只これは編著なので石川の単書という事で、これまた日常折ある事に開く「漢詩のこころ」

と姉妹編の「漢詩のたのしみ」を出す。

2冊で200首の詩を紹介する。春夏秋冬に応じた選詩で、何よりも嬉しいのは「唐詩選画本」などから採った画が多数添えられている事。中国の風俗、風景、昆虫、植物などが実によくわかる仕掛けになっている。日頃何程、心をなぐさめられているかわからぬと言う程の本だ。もう一人は故目加田誠 九州大学名誉教授で、平成改元の時の考案者の一人。この人の本も沢山あって推すに困る程、例えば平凡社の「詩経・楚辞」。

これも又居間に置いて何かあれば直ぐに引くが、ここには目加田本の中でも一番利用する回数の多い「唐詩選」を出しておく。「唐詩選」はあと数種使うが、私にはこれが一番だ。これ「新釈漢文大系」の中の一冊だが、この大系恐るべき本で、1960年に第1巻「論語」が出て、昨年2018年、ようやく全120巻別巻1で完結した。最終の巻は「白氏文集」だった。全巻書き下ろし文、全部に読み仮名付き、注釈の豊かさを誇る。今あげた「唐詩選」は812Pというすごさ。読めば読むほど。訳業の深さに感嘆せざるを得ぬ。

さて最後は今回の「令和」の発案者だと言われる中西進の本。もっとも中西は「発案者」と言われることを否定している。その否定の理由を中西は今年6月「文芸春秋」に、「令和とは”うるわしき大和”のことです」と題する一文でゆっくり優しく説いていて、元号の制定の経緯について、新元号の制定に関わった役人達が話してしまうのだろうが、この状態はおかしいし「私の理想からはだんだん遠のいているというのが正直な感想です」と嘆いている。中西は「令」は辞書を引くと「良いこと」とあるとして、「令和」を縷縷説明する。作家の高村薫は「現代人にとって”令”という字は、国民を律する”規則”のイメージが強いと思う。”和”との組み合わせは”国民を律して和を図る”といった意味にも取れて、正直違和感を覚えた」と言うが、この中西の説明を聞いてどう思うだろうか。それはさておき、この「命名者」と疑われた中西の本の中ですすめたいのは、万葉集ということからして当然、1964年刊、読売文学賞と学士院賞を受けた「万葉集の比較文学的研究」だが、これ全3巻総頁1,082p、おまけに1万5千円余りと高いので止して、1991年和辻哲郎賞を受けた「万葉と海彼」を出す。中の一編「六朝詩とと万葉集-梅花歌歌をめぐってー」は今回の元号「令和」の典拠となった文章についての一文だ。

中西は「比較文学」という文字を日本で最初に使ったのは自分だと誇るが、その比較文学者としての蘊蓄の程を実感させられる文章がずらりと並んでいる。読みたい本読むべき本がワンサとあるのに、人生は短いのう。

 

  1. 宇野哲人.論語新釈.講談社学術文庫(1980) []

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