2019.10.8寄稿
過ぎる9月28日(土)「ふくろう文庫ワンコイン美術講座」の第61回目として、「朝鮮通信使-先進文化を伝えた-」をやった。40名程度の来聴社が熱心に聞いてくれてやった甲斐があった。
新聞社からは当節の阿部政権による剣呑(けんのん=あぶなっかっしいこと)な両国の政治情勢をいしきしてのことか?と聞かれたが、別にそんな意図はない。このテーマは私の年来のものであったが、来聴者に示す格好(かっこう=てごろな)画集がなかった(大系朝鮮通信使」なる全8巻の大部名ものがあるが、これは6~70万する高価なもので入手しがたい。「朝鮮通信使絵図集成」があればいいなと思っていたが、これも高価でしかも品薄だ。それが先頃、室工大出身の建築家西方夫妻の寄付で入手出来たので、ようやく「通信使」に取り組めた訳だ。
「通信使」なるものが始まった理由は、偏(ひとえ)に秀吉にある。司馬遼太郎が「韓のくに紀行」で書くように、「秀吉の英雄的自己肥大という精神病理学的動機から出た外征」即ち朝鮮侵略のための出兵は、どこをどう見ても大義名分のかけらもない理不尽な侵略であって、この点を司馬はまた「やられる朝鮮こそいい面の皮であった」と言う。しか私に言わせれば秀吉の出兵はこんな生やさしい言葉で済むものではない。何しろ、秀吉は殺しまくり、壊しまくり、奪い尽くし、人さらいまでしてきた。従軍僧、慶念の「朝鮮日日紀」には「(我が軍は)民の家々は申すに及ばず、野も山も燃えるものは全て焼き立てて〜白衣(朝鮮服)の人が目に映えれば、老若男女の区別なく叩き切り、或いは捕虜にして~あごを縛って引っ立てて〜」とある。ナニシロ(ともう一度書くが)秀吉の軍令たるや「異国軍兵ノ首塚ヲツクルタメ、戦場の斬首ハユウニオヨバズ,老若男女僧俗ニ限ラズ、コトゴトクナデ切ッテ首級を日本ニ渡スベキナリ」と言う常軌を逸したものだったからだ。その結果が京都に現在もある「耳塚」だ。さらに秀吉がさらってきた朝鮮人は6万人。前記の僧慶念は「日本よりも〜人売買(あきない)せるもの来たり、奥陣より後につき歩き、老若男女買取て、縄にて首をくくり集め〜杖にて追い立て〜」と書く。その結果はとなれば、イタリア人フランシチェスコ・カルレッティの手記には「朝鮮から年齢の老若を問わず、いといけない子供達を含むおびただしい数の男女が奴隷として連行されてきており、この人々は全てどれもこれもひどく安い値段で売り払われていた」。
秀吉がさらってきたのは名も無き老若男女ばかりではない。学者も医者も技術者もさらってきた。その一例が司馬遼太郎の「故郷忘じがたく候」の主人公薩摩窯元の沈寿官(ちんじゅかん)ー一族だ。何故陶工まで連行してきたか。当時の日本が古代の須恵器(すえき)に毛の生えた様な原始的な土器しか作れなかったのに比して、朝鮮側では既に白磁に近いものを作り上げる技術を持っていたからだ。この陶工達のおかげで、醤油、酢、味噌を漬け込む大きく堅牢な焼き物が日本文化に登場したのだ。つまりは学問、医学、美術、etcと全ての分野において朝鮮はわが国よりはるかに進んでいたのだ。私が講座のタイトルに「先進文化を伝えたー」と付け加えた理由も此処にある。
さて、「天皇を北京に移す」と豪語した秀吉は負けた。頼山陽は言う。「朝鮮の国人がみなわが国を怒って、我が精兵を拒んだからだ。我が軍としてはどうしてこの戦いに勝つことができようか」(朴春日「朝鮮通信使史話1 」)
この頼山陽の秀吉批判を私流に言えば、秀吉は「義兵」に負けたのだ「義兵」とは「正義のために起こす軍隊」また「正義のために立ち上がる兵士」のことだ。江戸時代の福岡黒田藩の儒者、貝原益軒は「敵国よりみだりにわが国を侵す時、やむを得ずして起こす応兵をいう」と言い、また「乱を救い、暴をうつは義兵なり」とも言い、さらに「義兵」と「応兵」は「君子の用ゆる所なり」とし、「義兵、応兵にあらずんば妄りに発すべからず」とする 仲尾宏、「朝鮮通信使の足跡2 」。
この真に「愛国」の「義兵」、自分の国を救おうとする朝鮮の「義兵」に秀吉はやられたのだ。まるで、かつてのベトナム人民軍と巨大なアメリカ軍との戦いを彷彿(ほうふつ=よく似ている)とさせる話ではあるまいか。秀吉の暴虐から祖国を救った朝鮮の義兵については、1996年刊の「豊臣政権の海外侵略と朝鮮義兵研究3 」の著者、貫井正之に「豊臣、徳川時代と朝鮮4 」なる好著がある。
さて、話を戻す。今まで語ってきたように秀吉の理不尽な侵略によって日朝両国の国交は断絶した。これを修復して国交再開を望んだのは家康だ。家康は自分は先の秀吉の出兵に出兵には加担していなかったとして、朝鮮側にさらってきた人達を帰国させる様諸大名に命ずるなどの策を持って、国交再開を依頼した。その結果、家康の願いを入れてわが国を訪れる様になったのが「朝鮮通信使」と言う訳で、この「通信」とは「信=誠」を通わすの意味を持つ高雅な言葉だ。
通信史はは都合12回来たが、これを迎える日本側には熱狂と言っていい歓迎ぶりが各地に展開された。と言うのも、日本各地の知識人は、先進文明国たる中国を宗主国とする朝鮮の文化に触れたいとの願い切なるものがあったからだ.
「江戸時代の朝鮮通信使5」
一方「武」よりも「文」を重んずる朝鮮側は、毎回300〜500人から使節団の中に当時の朝鮮政界、学術界、医学界etcを代表する優秀な人材をよりすぐって入れてきた。更にまた、使節団の中には楽隊もいれば「馬上才」と呼ばれた、今で言えば馬を使ってのサーカス集団もいれば,「小童」と呼ばれた美しく着飾った少年達もいた。となれば、この使節団に接触しょうと試みるのは文化人ばかりではない。巷の人々も使節団の行列が示す見たこともない衣装、風体。聞いたことのない音楽、これまた見たことのない楽器を目の当りにしようとして各地に蝟集した。その接触の様は・・・「使節一行中の朝鮮文人は僅か3、4ヶ月の間に1,000余命の日本文化人、学者と面談し2,000余編の詩の唱和に応じた」云々と記録される程。ここで注意すべきは「面談し」とは言うけども、対馬の儒者雨森芳洲のように朝鮮語、中国語をしゃべれる人はともかく、後の人は皆漢文による筆談であり、詩の応酬(やりとり)にしても、皆漢詩なのだということだ。となると、つまりは各人の「学力」が判然としてくる訳で、今で言えば東大の総長級文科相級の林羅山の息子(林信篤)が辛辣な記録係、申維ほん(らゆほん)から、「余り学力はなさそうだ」なぞと評されたのは気の毒な話だ。ところで今の安倍一統殊に麻生など、この伝でいけば「余り学力はなさそうだ」では済まぬこと、これまた想像するまでもなさそうだ。情けない。