第269回 岸田劉生展

昨2007年6月9日(土)〜7月29日(日)迄「北海道立函館美術館」で、「画家・岸田劉生の軌跡—油彩画・装丁画・水彩画などを中心にー」展が開かれた。ポスターの謳い文句は「駆け抜けた38年」。「とってもいいですよ」と、これをみこれを観た苫小牧の墨谷さんから感動の知らせが来たが、私は折悪しく風邪を引いていて、諦めざるを得なかったーと覚悟していたら、明日で終わりと言う日に元気が出て、勇躍行って来た。


劉生と言うと、あちこちで観て、大して新鮮味なさそうな気が市内でもない人が多いのでは?
と思われるが、その印象がどうしてなのかと言うと、今回の図録の巻頭にある富山秀男(美術評論家)の文章の冒頭を読めば、成る程と納得しないでもない。富山曰く、「〜まだ記憶に新しい最近の劉生展を挙げただけでも,2000年(−劉生終焉の地・徳山展−徳山市博物館)、2001(−生誕110年展−愛知美術館、他巡回),2003(岸田劉生・麗子展、ふくやま美術館),2003年(劉生と京都)〜」と言った具合で、これでは、行ってなくても行ったような気になるのであって,然し実際に我々は、そう「観た!!」と言える程,劉生を観ているのかと言うと、それがあやしいのだ。それと言うのも、この函館の「劉生展」にしてからが,何と、図録のあとがきあたりをみると、「道内公立美術館での本格的な回顧展は今回が初めてと思われる」と書いている位で、と言うことは、つまり、我々道民は,あー劉生か、と言い得る程には、劉生にお目にかかっていないと云うことになるのではなかろうか。

大体が、内地=本州で数多く開かれている劉生展のどれにも顔を出せる人が、矢鱈と居るとは、とてもの事、思えない。そして又、劉生と言うと、99%(と言っても、絵に多少関心のある人の内と言う意味だが)の人が、あっ、
「麗子像」と言う。しかし、これはよく訊いてみると、大方の人が頭に浮かべているのは、油絵の麗子像なのだ。
その油絵の中でも、とりわけ有名なのは、1920年作の「毛糸肩掛せる麗子像」で、これは劉生自身が日記の中で
『肖像の中でやはり一番いいものの気がする。しかしまだまだだ』と言っている位な出来だから、我々の印象に残るのも無理はない訳だ。おまけにこの作品は、今東京国立博物館所蔵で、「重要文化財」となっている「青果持テル麗子微笑」に直結する作品として、劉生絶頂期の作品なのだから、繰り返して言うが、「麗子」と言えば、これを思い出す人が多いのは不思議ではない。
因に、この「毛糸肩掛〜」の麗子は、2005年の段階で3億6千万したもので、この価格は未だ破られていない日本美術史上最高価格の筈だ。
まあ、お金の事はともかく、作品の方に話を戻すと、油絵の麗子を知っている人はおおいとしても、劉生には、水彩による沢山の麗子像がある事を知っている人は少ないのではなかろうか。と言うのは、ここに「水彩素描・麗子・於松」なる1000部限定の作品集があって、中には全部で31枚の絵(20枚が麗子、11枚が於松)が収められている。

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於松とは、いわゆる「村娘」の題がついた絵で知られた少女で、これは、劉生が体調をくずして、鵠沼に引っ込んで静養していた時に、劉生宅に出入りしていた、本当の村の娘を描いたものなのだ。
劉生は、何故こんなに水彩で描いたのか?。今、記憶のみで言うのだが、劉生は、油絵はともかく、麗子や於松のいたいけない少女の微妙な表情の変化を捕らえるのは、時間がかかる油絵よりも、素早く描ける水彩の方がいいと言っていたと言う。その結果がこの31枚の画集だ。
函館での展覧会には麗子は2枚程しかなかったと記憶するが、いずれにしても、これだけの数の同一人物の水彩素描があるのは驚きだ。….と云うことで、1月〜3月末日迄、図書館3F「ふくろう文庫」の部屋で、この「麗子・於松展」を開いている。1ヶ月に交互に10枚宛出して、全31枚を3月でおしまいにするつもり。どうぞ観に来て下さい。さて、細かい事を一つ言う。…..図録93Pに「資料3」として「精錡水/目薬(楽善堂)なることわり書きがついて、目薬の外函とガラスの容器が写っている。これは何かと言うと、…で、

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④の立川昭二の「生とと死の美術館」の中の「美国名医と義足名優」からの引用で説明すると、「ヘボンは眼科にすぐれ、多くの眼病患者を救ったが、彼に眼病を治療してもらい、その縁で彼の助手となった岸田吟香は、ヘボンから秘伝の目薬の製法を教わり、「精錡水」と名付けて売り出し、明治売薬のベストテンとなった〜」。この美国とはアメリカの事、名医とは1859年44歳で来日した我が国最初の宣教師ジェームス・カーテイス・ヘップバーン、つまりヘボン、して又つまり、ヘボン式ローマ字の発案者の事。
ヘボンは吟香と組んで、我が国最初の和英辞典たる「和英語林集成」を1867年に出し、又、横浜のフェリス女学院と、東京の明治学院を創設した。不肖、私は「明治学院」卒である。そして吟香は劉生の父親なのだ。
とここ迄、何の問題もないのだが、一つ気になるのは、立川の本のルビ(しんきすい)で、「精」を「しん」と読むのだろうか。呉音にしたとても「しょう」で、「しん」は無理ではなかろうか….と言うのが、細かいことながら….と言う意味だ。因みに、私は「津山洋学資料館」の会員なのだが、最近届いた同館の「友の会だより・NO50」には「資料購入」として、③楽善堂三薬、精錡水の錦絵引札が出ていた。引札とは、まあ、広告のチラシのようなもんだ.②の著者・岸田幸四郎は、麗子の夫だった人。③の椿貞雄は山形は米沢出身で、劉生に師事した洋画家(1896-1957)で、劉生の油絵のモデルにもなった人。

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