第301回 人間通シムノンとメグレ警視

`10.09月寄稿

もう30年も昔の話になるが、室工大勤務中に、水元小学校の6年生が図書館見学に来た。中に1人結構本を読んでいると感じさせる物言いをする男児がいて、その子が質問の時間になって訊くには、「世界で一番売れている本はなんですか?」と言うものだった。私は「それは聖書だ」と答えて、その時にはその答えで間違いではなかったが、今では様変わりで一番は「聖書」ではなくなった。

では何が一番かと言うと、かの「レーニン」なのだ。..あっ、ここで一言いい直さねばならぬ。一番うれているのか、の答えは「聖書」でいいのだが、世界で一番広く翻訳されているのは「レーニン」なのだ。次いで来るのがフランスの作家、ジョルジュ・シムノンだ。ジョルジュ・シムノンノ作品は55ヶ国で翻訳されている。と言っても、これ、1989年9月初旬にシムノンが86才で死んだ時点での成績。今ならもっと伸びているだろう。

このとき、シムノンの創り出した「メグレ警視」が主人公の、いわゆる「メグレ物」は5億部売れている、との発表だった。シムノンは「メグレ物」を74冊書いた。これを含めて、生涯で書いた小説は約220編...と言う事は、19世紀末「人間喜劇」の総題の下に90篇なる長編を物したオノレ・ド・バルサックに匹敵する作品を世に送り出した多作家と言うことになる。「シムノンとメグレ警視1

シムノン個人については、話題に事欠かない、そのいくつかを挙げてみると...シムノンには学歴がない。松本清張がちょっと似ているが、シムノンは15才でパン屋の見習いになったが、数日経たずして止めてしまう。次いで本屋の店員になったが、これもまもなく止めて「リェージュ日報」なる新聞社の記者となった。この辺りはミエール・ゾラと似ている。

シムノンはフランスの作家とされているが、生まれはベルギーのリェージュ市。シムノン先述したとおり多作家で、ある時は人通りの中にセットされたガラス張りの小部屋に入り、通行人の行き交う中で、小説一遍を仕上げる事も出来た...と言うのを読んだことがあるが、これはもちろんパフォーマンスで、素早く仕上げる事に違いはなかったが、軽く書き流す...と言ったような不真面目なことはなくて、息子のジョンが言うには「父は頭を使って書くのではなくて、全身全霊を打ち込んで書くのだ」そうで、それは「執筆中、父は発汗のために2kg近くずつ痩せて行った。父が無我の境地に入る事は明らかだった」となる。だから、シムノンが原稿をまたたく間に仕上げると言うのも、ジョンによると、「父が一冊の本を一週間から十日で書き上げた理由は、それ以上長く書き続けたら肉体的に参ってしまうからだ」となる。もっともなことだ。

シムノンは又、タイプで打つのではなくて鉛筆で書いた。そしてその間はニューヨークのプラザ・ホテルからいただいて来た「Don`t  Disturb=静かにしておいて」の札を部屋の取っ手につけておいた由。これを真似た訳ではないが、私も昔は各ホテルから、この手の札をもらって来て、寝室のドアにかけた事があったが、結構分厚くなるので、いつの間にか止めてしまった。

シムノンは又、パイプに凝って厖大なコレクションをしたが、これは「メグレ物」にうまく使われた。シムノンが創り出したパリ警視庁の警視メグレは、180㎝に100kgの巨体で、オフィスにいつも15本のパイプを置き、仕事中も無論これを離さない、重いコートにフェルト帽をかぶって、思案をこらすべく居酒屋に入ってはペルノー酒やカルバドス酒を、そして又ビールを飲む。

私も一時これを真似て、度の強いカルバドス酒を見つけて来ては飲んで、結果、ガンマGTPやらの数値を上げたものだった。一説にシムノンは又、生涯一万人の女と寝たとされていて、その殆どはシムノン自身が「プロ」と呼ぶ娼婦を相手だったと言う。この点をもってしても、シムノンを「色情狂」とする人もいるが、シムノンはこれを否定して曰く「〜私は上質の生地が好きだ...女性の肌、女性の肉体程すばらしい生地が他にあるだろうか?」と言い、更に「二人の間に、性交より親密な関係があり得るだろうか?」とも言っている。

ところで私は余りミステリーなるものを読まない...否読む時間がない。けれどもシムノンのものは読む。

私の棚には、河出から出た「メグレシリーズ」のシリーズ50巻が先ずあって、その他、シムノンのいわゆる本格小説と呼ばれるものも含めて、今まで出たものは大凡揃っていると思うが、中で一番好きなのは「ビセートルの環2」だ。シムノンは下調べを全くしない作家だが、たった二つ下調べをしたものがあって、それが、これと、もう一つ「ちびの聖者3 」だ。

「ちびの聖者」は露天商の息子が純な心を持ち続けて、一流の画家になる話で、時々、これ「ゴッホ」かなと思う様な所があったが、勿論モデルはいない。「ビゼトール』の方は成功した新聞王が脳卒中で倒れて入院し、そこで、文字通り裸にされて、つまりはそれまでの虚飾の全てをはぎ取られたあとの、半身不随で口も聞けない身で、人生についての思いをいたす....と言うもので、これは、まぎれもない傑作だ。

私が、「メグレ物」を好むのは、そこに「トリック』と言った遊びめいたものが全くなくて、描かれるのは人生そのもの、或いは人間の業そのものと言ったものだからで、密室だ、ナンダと言うゲーム感覚のミステリーに使う時間のない私でも、シムノンに使う時間は惜しまないのであって...今回シムノンを取り上げたのは、待ちに待った「倫敦から来た男4 」が漸くDVDになったからで、この寡黙極まる暗黒映画を観ての感動を伝えたくて...と言う次第だ。

「雪は汚れていた」も「仕立て屋の恋」も「離愁」も皆シムノンの原作だ。ところで、シムノンの愛娘マリー=ジョが20才余りで自殺したのは、さすがの人間通シムノンにしても予測出来なかった事だろう。



  1. ジル・アンリー.シムノンとメグレ警視.河出書房(1980) []
  2. 三輪英彦.ビセートルの環.集英社文庫.(1979) []
  3. 長島良三.ちびの聖者.河出書房新社(2008) []
  4.   長島良三訳.倫敦から来た男.河出書房新社(2009) []

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