第347回 ワンコイン美術講座で取り上げた画家達

の今日は9月7日(日曜日)、昨土曜日、今月第四土曜日の9月27日予定の第40回「ふくろう文庫ワンコイン美術講座ー童画の巨匠.武井武雄ーの世界」の用意で手伝いに来た幼馴染の泰子が「今迄やったワンコインの画家達についての本をこの「あんな本〜で取り上げてくれたら、復習するのに役立って嬉しいんだけどな」と言う。

言われてみればワンコインで私は少なくとも10点程多いときには30点余りの参考文献を聴講者に見せながら、話すのだけど、そこで提示した本を、この棚で取り上げた事はほとんどなかったように思う。そこでこれからは言われてみればもっともだ思う泰子の希望を容れて時々取り上げることにする。

先ずは記憶に新しい所から...で第39回の甲斐庄楠音(かいのしょうただおと)の本。

明治27年京都生まれ、昭和53年.独身のまま84歳で死去。この珍しい姓名は細かい事は省くが、楠政成(まさしげ)第24世孫という出自による、クスノキ・マサシゲは今は全くはやらぬが、戦前戦中は忠臣と称えられた悪党、この悪党とは河内国の土豪で、荘園領主の年貢を強奪したことで武士に成り上がった政成の行為からつけられた名だ。

楠音の父は乱脈な生涯を送った男だが、何故か楠音を女児扱いして、女の子の着物を着せ、本人も又その故か、お手玉、おはじきを好み、果ては女装をを楽しむ身となった。もっともはっきり言えば、変身願望が高じて、どうも今で言う性同一障害者のようなところがあったもののようだ。

生来絵が好きな楠音は、一応普通の中学校に入ったが、途中で京都府立の美術学校に転じて後「国画創作協会」なる団体に属して、順風満帆の画家生活に入るかに見えた。

然し、人生有為転変(人生浮き沈みがあること)だから、楠音の身にもそれは当然起きて、大正15年第5回国画創作協会展に出品した「女と風船」に対して創作協会の創設者の一人土田麦遷が「穢い絵は会場を穢くしますから、ダメ」とて出品を拒否する。穢い なる字は、きわだって汚いことを意味するから「絵を描くことの本元は女を描くことだと信じる」とする楠音の全画業がここで否定されたも同様のこととなって、楠音の画家としての生涯は断たれる。その後 楠音は溝口健二に時代考証家として協力し、「雨月物語」でベニス映画祭の銀獅子賞を取ったりもした。私自身は村上松園や鏑木清方、そして肝心の土田麦遷の女人像も嫌いではないが、生身の女を描いた者としては楠音に軍配を上げる。因みに楠音伝の著者栗田勇は仏文学者。イジカール・ヂュカス ド・ロートレアモンノ「マルドロールの歌」の訳者「マルドロールの歌」を私は最初、青柳瑞穂訳、駒井哲朗の銅版画入り本で読んだが、この栗田訳も読んでいたら、ナント大学での仏語の先生がこの栗田、顔面大きく背は小さく、甚だ無愛想な人で面白くはなかった。私はモーパッサンを習ったが、そういえば、楠音の描く豊満な女体は、モーパッサンの「脂肪の塊」と言ったところか。「女人賛歌1  」

次は1月25日にやった第36回の木村荘八。荘八の父、壮平は明治39年(1906年)に没した人だが、甚だ突破ずれの生涯を送った人で、生前に認知した息子は女17人男13人計30名(ついでに言えば楠音の父は、本妻、側室に会わせて男6人女3人を生ませて楠音は5番目だった)何故壮平の子供が30人もいたかとなれば、壮平は「いろは牛肉店」なる店を東京中にいろは47文字の数だけ作るつもりだったらしく、20店程まではいったらしい。彼はそこに一人宛本妻ならざる女を置いて経営に当たらせ自分は三人曳きの赤塗りの人力車にフロックコートを着て座り、走り回って管理しつつ、かつ子を生ませた。この子供達には中々出来物揃いで、女の方では長女の栄子が、筆名木村曙の作家4番目の清子が女優、ついでに女の方の名は、5番目からは大分簡略化されて、「五女(いな)」「六(ろく)」「七(しち)」と来て、最後が「十七(とな)」だから、まあ総背番号みたいな名だ。男の方は、4番目の荘太が文芸評論家、荘五が経済史家、荘六が奇術師、荘七が俳優、荘八が画工、荘十が作家荘士が図書編集者、荘十二(そとじ)が映画監督で、一番名を成したのが画家の荘八だ。

荘八の業績としては油絵の代表作「牛肉店帳場」、文章家としては「東京今昔帖」、それに永井荷風の「東綺譚」への一世の名作挿絵と多々。

この一族の足跡を追うのは中々厄介なものだろうと思うのだが、それを良くしたのが北荻三郎の「いろはの人びと2」だ。読んで飽きない。荘八の画友・岸田劉生の父・岸田吟香も壮平に劣らぬ明治の傑物で、この父子は5月の38回で取り上げたが、今回はパスしていずれ又にしよう。

幼稚園に通ったことのある人で(通ったことのない人)でも、「キンダーブック」の画家・武井武雄を知らない人はなかろう。私も常磐町にあった「双葉幼稚園」のグランドピアノ下にもぐり込んで、キンダーブック他に見入ったものだ。40回の予告には「童画の巨匠」ポスターには「童画の神様」なる惹句を使ったがこの「童画」なる言葉は武井の造語で、大正13年の個展の際に初めて使ったものだ。当今は絵本の全盛期とも言うべきだが、この基を作ったのは絵画主任として参加した絵雑誌「コドモノクニ」の創刊だ。「絵本の絵たるものは、文学の家来ではない」主張が「童画」となって表れた武井の業績に加えて、私は、武井が「刊本」と名付けた限定本300部の小型絵本のことも触れるつもりだ。豆本愛好者でこの「刊本」を知らぬものはいないが、何しろ所有者は300人のみで会員になるには会員の欠が出来るまでダメという世界を含めて、長女の三春が語る思い出の本を出しておく。ポスターの字はいつもの如く書家田沢早智子女。使った絵は武井の戦中戦後の「絵日記」から。「父の絵具箱3

さて、11月の第41回は浮世絵の開祖たる浮世絵師岩佐叉兵衛(いわさまたべい)をとりあげ「ふくろう文庫」の誇る「山中常磐物語絵巻」を見てもらう「ふくろう文庫ウオチャーズのメンバーで、ワンコイン講座の支持者かつ「源氏物語」に詳しい小幡さんの話では先頃どこぞのテレビだか、雑誌だかが叉兵衛を取り上げたそうだが、私は知らなんだ。予告には「信長に殺されかかった画家」としたが、この画家なる名称はむろん後の話で、実際に殺されかかったのは天正7年(1579)、摂津の武将荒木村重を伊丹城に攻めた信長は、勝って後荒木の一族と重臣達を六条河原で打ち首にした。このとき村重が側室に生ませた数え2歳の末子が乳母によって救い出され,,,これが後年の天才絵師即ち叉兵衛だ。2005年に私が叉兵衛のもう一つの傑作絵巻「上瑠璃絵巻」について「本の話」に書いたとき、栄高の時の化学の先生が「山下君 は間違い」だと言いに来てくれたが、古浄瑠璃については「上」を使うのが正しいとつつしんで申し上げたのだった。

「浮世絵師叉兵衛はなぜ消されたか4


  1.  栗田勇.女人賛歌.新潮社(1987) []
  2. 北荻三郎 .いろはの人びと.文化出版局(1978) []
  3. 武井三春.父の絵具箱.六興出版(1989) []
  4. 砂川幸雄.浮世絵師叉兵衛はなぜ消されたか.草思社(1995) []

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