`05.2月 日 寄稿
過ぐる1月8日(土曜日)に「ふくろう先生と行く文学の森」―冬休み特別講座ーを本館三階の講堂で開いた。題して「聞いて熱中,雪の話!!北越雪譜と雪華図説の世界ー」。これ、苫小牧の受講生から「ふくろう文庫」を見たい,との声が出て,それならもっと一層実り豊かに、との発送から,雪の季節であるからして,ならば,雪に欠かせない本・2種と言うことになって、雪譜と図説を取り上げた次第。苫小牧からは,バスやら電車やら自家用車やらで,50名が来て呉れ、それに室蘭勢が加わって,午前と午後の2講座合わせて120名が聴講してくれたが、ここで改めて「苫小牧・ふくろうの森の会」と地元の「たんぽぽ文庫」の皆さんに,お礼を述べておきたい。おっと,言い忘れる所。講座の午後の部は「ふくろう文庫の」逸品紹介、と言うことで,渡辺華山の「四州真景」他の復刻・巻子本などを解説・紹介したのだった。
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さて、前回は,折からの地震にからめて、「北越雪譜1 」の関係の話をしたが,今回は「雪華図説2 」の話だ 「せっかずせつ」の著者は、土井利位なる茨城は古河の大名で,この本、天保3年12月(1833年2月)に出た。
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この大名、幕府の中では仲々偉くて奏者番、寺社奉行、大阪城代、京都所司代、老中といわゆる要職を歴任した御仁だ。(これらの役目については各々調べてみて下さい。)
そんな違い、じゃない偉い人が,多忙(おそらくは)の合間に書き上げたこの本は、どんな中身かと言えば、蘭鏡と呼ばれた顕微鏡を使って調べた雪の結晶図を並べた本なのだ。と簡単に言うが,この観察には実に20年かかっている。今の人は、茨城やら大阪に,結晶を写す程に雪なぞ降るの?と聞きたい所だろうが,当時は,世に言う天保の飢饉やらで,日本全体が悪天候、つまりは冷えが続いて,雪もよう降った(らしい)。それで利位は行く先々で雪を手にすることが出来たのだ。
と言っても,大名のこと故,自分で降ってくる雪を集めに駆け回りはせぬ。古河の歴史博物館(私は2度行って来た)の展示では,人形を使ってその場を再現しているのだが,殿様たる利位は降る雪の中、野点(のだて)に使うような大きな傘の下で床机(しょうぎ)に座っていて、もっぱら家来達が、四方に跳び回って雪を受けていた。この雪を受けるのに、冷やした黒色シュスやら、黒漆ぬりの器を使ったそうだが、人工雪の権威、現代の中谷字吉朗は「大変巧い考え」とほめている。
かくして、利位候は、合わせて74種の結晶図を残したのだが、この本が成るについては、実は一人の強力な助っ人がいた。その人にふれる前に話を一寸変える。
その話と言うのは、昭和9年に博文館から「江戸時代の科学3 」なる本が出た
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これは東京科学博物館の創立1周年を期しての展覧会に陳列した諸資料の解説目録で、昭和44年には名著刊行会から復刻されたから、私は室工時代、直ぐに図書館に入れておいた。
ところでこの本に「雪華図説」が出ているのだが、その著者には、利位の名がなくて、「鷹見泉石」なる名前が出ているのである。理由は不明だ。
ここで又道草を食って思いで話を一つする,,,1974年にハンス・ケルナーの「シーボルト父子伝」が、竹内清一訳で創造者から出た。この本に,蘭医が一人の西洋人に注射をしている図があって、針を刺されている方は、実に「イテテッー!!」と言う表情で、まことに面白い画なのだが、竹内の解説では、描き手不明とあった。
私は「江戸時代の科学」その他によって、この画の作者が、シーボルトに愛された長崎の画家、川原慶賀であることを知らせて、竹内からエラク感謝されたが、これは皆知っていることで、ただ竹内が蘭学・洋学に詳しい訳ではなく、ドイツ語畑だったからケルナーの本を訳しただけ、と言うことから来た結果だと思う...。
さて、助っ人の話に戻ると、利位を助けたのは家老の鷹見泉石だった。この人、実に幸運な人で、と言うのは、この人の肖像画が残っている。それも国宝としてだ。描いたのは悲劇の画家・渡辺崋山。この肖像画、今では崋山関係の本でたやすく見ることが出来るから、見て欲しいが、見れば、泉石正装だ。これには訳があって、
世上有名な「大塩平八朗の乱」の時に、利位は大阪城代で、したがっって家老たる泉石は,大塩を召し捕らえるべく働いた。事件のあと、泉石は事件報告のために江戸に戻って、ついでに土井家の菩提寺の浅草の誓願寺へ、土井家の代拝として参拝し、その帰り、又もついでに
山の所に寄った。用が用だから正装している訳で、それを見た崋山がその正装が言いとて、その場で泉石を描いたと言うのである。重ねて言うが、これ、今国宝。大したもんだね。
又ついでに言うと、渡辺登に崋山なる号を与えたのは、崋山の藩にいた儒者で、泉石と親類筋の鷹見星皐(せいこう)だ。初めは草カンムリだったが、同名の画家がいたので、文人達あこがれの山、中国の五嶽の一つ「崋山」に因んで山カンムリとした。そこで崋山の画業を花カザン時代、山カザン時代と言って分ける。
さて、蘭学を学んだ崋山と泉石は、自分もまた蘭学者で、オランダ語は当然、ロシア語、フランス語も噛じったらしい。なにしろ当時、諸外国のものを初めとして地図800枚を集めていたと言うから、恐ろしい勉強家だ。古河歴史博物館の門前の旧家老宅は、今休み所になっているが、とにかく泉石は、その労力をもってして、主なる利位の「雪華図説」を成すための研究を支えた。
私はこの泉石が好きだが、残念に思う所が2点ある。その一つは、役目がらと言えば片付く話だが、先の「大塩平八郎」を召し捕ったこと。キキンにあえぐ庶民をすくうべく立ち上がった大塩が好きな私としては、残念至極だが、しかしこれは、くどいようだが役目がら致し方ない。しかし、もう一つの点は、どうも好かぬ。
それは、泉石がかの「蛮社の獄」(この事件はなかったと言う説の是非はおくとして)、その時,デッチあげた、鳥居耀蔵の威をを恐れ、殿大事、お家大事のために、デッチあげで、罪におとされた渡辺崋山を救おうとせずに、崋山から離れ遠ざかったことだ。何と友達甲斐のない!!
国の行先を憂いて、外国の諸事情を学ぼうと言う崋山ら憂国の士の動きを、徳川幕府の背骨を成す学問、即ち朱子学の頂点に立つ儒者・林述斎の息子としての、警察官吏・鳥居耀蔵は憎しみをもって弾圧した。こうした時代に「雪華図説」は書かれていた。
世界に先がけた「雪」の古典の完成の助言者となった泉石は、「国宝」となった自分の肖像を残した画家・崋山を見殺しにした。その点私は好かぬ。
ここに鳥居耀蔵関係の本を3冊上げる。平岩の描く像が正しいか、松岡の像が間違っているか。4冊目は、耀蔵と同門の兄弟子にして、崋山を救おうと動いた松崎慊堂の話だ。「妖怪4」 「黒牛と妖怪5 」
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平凡社刊全6巻の「慊堂日暦8 」はいい本だ。私は慊堂が好きだ。この好々爺の肖像も崋山が描いている.但し国宝にあらず!!
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