`95.12月6日寄稿
11月15日に母を失った後、矢張り疲れた(と言うと、親不孝な言い種ですが)ので、温泉に行って来ました。
日本海の臼別温泉は、明治20年(1887)開設の古い温泉で、江戸時代の文人、旅行家、菅江真澄(ますみ)も浴したと言う名湯で、最初ここにしようかと思ったのですが、最近、湯が濁ったとかで、年内は閉鎖との知らせが入ったので、近くの貝取澗(かいとりま)温泉に変えました。はじめ、八雲から日本海にぬけようと考えていましたが、宿の人の助言で、なだらかだと言う、国縫(くんぬい)からの道を取りました。
国縫は、八雲と共に、かつて北海道最大の砂鉄鉱業地域だったところで、現在は酪農と、ホタテ養殖とで生活している町です。
国縫と聞いて、私は宿での読書に、和田芳恵の「暗い流れ」を持って行くことにしました。和田は、荒物雑貨商の和田伊太朗の息子として、この国縫に、明治39年(1906)に生まれました。隣に温泉熱利用のアワビ種苗供給センタ―がある宿「アワビ荘」でアワビの水具を肴に晩酌しながら、これが母の好物だったなあ、と思い出したりした後、寝る前に、私は「暗い流れ」を拾い読みしました。
帰宅後、和田芳恵を読みはじめたのはいつか、と書棚を調べてみましたら、昭和29年の「樋口一葉」(新潮社、一時間文庫)が最初ですから、高校2年からの愛読者と言う事になります。和田は、昭和38年「塵の中」(第50回直木賞)昭和49年「接木の台」(第26回読売文学賞)など、死に近づく程いい仕事を残しましたが、中でも私が好きなのは「日本文学賞」を受けた昭和52年の「暗い流れ」(河出書房新社刊)です。
いずれの場合も、のっぴきならない男と女の「性」を語って、つまりは人生を語って、こんなにも、濃厚な余韻を残す作品は,そう多くはない、と私は思います。「暗い流れ1 」
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様々な女性が登場しますが、とりわけても「父」の「妾」である「シモ」なる女性は、一際(ひときわ)光彩を放っていて、男の理想、男の夢、なる「女」を形象化したら、こうもなろうかと思われる程に、深々とした「恵み」に満ちた女で、私は大好きです。
国縫は、普段函館への往復に通り過ぎるだけの町ですが、私は和田芳恵だけが目的で2度訪れたことがあります。
最初は昭和53年で、国縫の有志が集まって「和田芳恵を讃える会」を作り、文学碑のかわりに、記念誌「和田芳恵先生を偲ぶ」を刊行した時です。丁度帯広から遊びに来ていた卒業生の黒島君親子を迎えて洞爺温泉に一泊した翌日、車を連ねて、国縫小学校を訪ねたのでした。職員室の入り口には、小さなショーウインドウが置かれて、その中には、いくつかの和田の遺品やら、著作やら、が並んでいました。
私達は、留守居をしていた校長先生と覚しき人に、来訪の訳を説明し、記念誌を求めたのでした。そのあと、私達は,和田が帰郷の時に泊ったと言う国縫駅前の「つるや旅館」を見、同級生と一緒に入ったと言う「そば屋」(名は失念)に行って蕎麦を食べたのでした。
二度目には国縫を訪ねたのは,5.6年前で、急に和田の遺品を見たくなって、週日にもかかわらず出かけたのでしたが、和田の遺品は、新設の郷土資料館に移されて、「和田芳恵」コーナーが出来ていました。
そのことを教えてくれた教頭先生は授業中だったのに、態々、和田の写真が飾られている図書室などを案内してくれた上、何かと、説明してくれるのには全く恐縮しました。
和田の愛した長万部駅近くの「K寿司」には私も何回か行きましたが、代が替わったのか、最近は味が落ちたのが残念です。「そば屋」と「旅館」は姿を消しました。
和田が死んだとき、友人の作家野口冨士男は「晩年の、と今はもう言わねばならないのだと思いますが、貴方の生きのすさまじさには、眼をそむけたくなるようなものがありました。あの弱り果てた肉体で、よくもあなたはあれほどたくさんん、それもことごとく良質な作品を次々と書くことができたものです。と言い、更に、「世には歌わんがためにわれと我が身の心臓を食らう人間のこうろぎもいる」とのラフカディオ・ハーンの言葉を引いて、「あなたこそ、まさにそのこおろぎでした。との弔辞を述べました。
そのすさまじい生を支えた妻の静子の静かな包容力に満ちた、読んでいて心打たれる手記が「命の残り2 」です。
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さて、11月17日の晩「読書への招待」と題してお母さん達を前にして、行った講演の際「一番感動した作品は?」との質問がでましたが、もし「好きな作品は?」ときかれていたら、あえて北海道生まれの作家と限定して、私は、伊藤整の「変容」と和田の「暗い川」それと生まれは別として有島の「或る女」をあげていたろう、と思います。