`92.10.30寄稿
私はまだ観ていませんが、映画「おろしや国粋夢譚」(原作井上靖)で、すっかり有名になった三重県鈴鹿白子の船頭、大黒屋光太夫が、苦難の十年余を経て、帰国してから、今年は丁度二百年目と言う事で、帰国の第一歩を印した根室市では、この10月20日、記念式典を開いて、作家綱渕謙錠氏らの講演があったそうです。昨年は、音楽家、青木英子の作になる,光太夫が主人公の日、ソ合作オペラがあり、今年は映画に合わせて「電通」が企画した「エルミタージュ美術館蔵、華麗なるロシア宮廷美術展」が開かれ、その際、会場の仮設ボードが倒され、十八世紀フランス絵画2点が傷つくなどの不幸なおまけがつきませしたが,光太夫人気は、なかなかのものです。
ところが、肝心の映画が余り評判にならないので、どうしたことかな、と不審に思っていた所、講談社の「本ー読書人の雑誌ー」10月号の、映画評論家、蓮実重彦(はすみしげひこ)の文章が目にとまりました。。
何でも、日本のプロデューサーは、この映画を国際映画祭に出品しようとして、各国の選定委員達をロシアまで招び、撮影の現場を見せながら、数日間、いわゆる丸抱えの接待をしたらしいが、その甲斐もなく、どこからも出品を要請されなかったらしい。そりゃいくら接待されたからとて、悪い物を選ぶわけがない....という趣旨のものです。成程、成程。
まあ、映画の出来はさておいて、エカテリーナ二世の頃、宮廷サロンの音楽を集めた珍しいCDが出ました。
フォ−ミン、ボルトニャンスキイなどという作曲家の者で、勿論日本初紹介.ひょっとしたら女帝に拝謁した光太夫も聞いたかも知れぬ作品は、文字通り、絢爛(けんらん)にして優雅、聞くに価するCDです。
さて、光太夫と、音楽となると、私の好きな話は、光太夫とソフィアなる女との話です。光太夫は,エカテリーナ二世に、日本に帰してもらえるよう頼もうとペテルブルグに行くのですが、女帝は夏の離宮に移っていて不在.女帝の後を追った光太夫が泊ったのは、離宮庭園の長のブーシュの家でした.そこには、園長の妹、未婚のソフィアがいて、光太夫の身によせる同情が、いつしか恋に(?)に変じます。
この辺りを光太夫から聞き書きをまとめた「北槎聞略1 」(岩波文庫)のは「光太夫の身の上をブーシュの妹ソフィア・イワノウナ歌につくりてはやらかし、都下一般にうたいいけるとぞ」と出ています。
その都にはやった歌とは
“① ああわたしの胸はいたむ ふるさとにありながら あなたは国をはなれ
わたしをすてていってしまう わたしの心のいとしいい方よ”
“②あなたはわたしの愛する人よ それでもいっしょにくらせない あなたは戻ってこずにきっと忘れてしまうで しょう わたしがあなたのものだったことを” 以下十番ほど続きます。
この歌を、光太夫は1792年、聞き書きをする学者、桂川甫周(かつらかわほしゅう)の前で歌いましたが、実にこれが、日本で歌われた最初のロシア民謡だということです。こうした話がのっているのが、亀井高孝(たかよし)の「光太夫の悲恋2 」です。素っ気ない装釘の本ですが、実に面白い、又、残念なことに、この本は目下品切れなので、代わりにこの本の前に亀井が書いた「大黒屋光太夫3 」をすすめておきましょう。
さて、この歌については、最初、ウクライナあたりの農村の歌だったのが、首都ペテルブルクではやり、それをソフィアが光太夫に聞かせ、そのあと、皇帝の専制に抗する「十二月党」員達が歌う抵抗の歌となり、今世紀になってカラは、何と旧ソ連軍の軍歌とかわる。一方我が国では、第二次大戦、敗戦後に盛んだった「歌声運動」の中でロシア民謡の一つとして歌われました...という面白い歴史がわかって来ました。
そして、この歌の歴史をたどったのは、前記の亀井の訪ソの際、ロシア語の出来ぬ亀井の手足となって、通訳その他の働きをした中村善和でした。
「ソフィアの歌」、一遍を含む中村の本が「おろしや盆踊り唄考4 」です。むずかしげな副題がついてますが、興味をそそられる話に満ちた面白い本です。
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