2019.5.26寄稿
私は英文科出身だが、大学での最初のテキストはチェコの作家、カレル・チャペックの「イギリスだより」だった。1924年5月から7月の2ヶ月間、ロンドンのペンクラブ大会に招かれた時の見聞録記だ。この辛口の旅行記は、これからその国の文学について学ぼうとする者には、その国土と国民性を理解するために非常に有益な案内書だった。
それ以来私はチャペックが好きになって、今私の書庫には成文社の「チャペック小説選集」全6巻や恒文社の「チャペック・エッセイ選集」全6巻が並んでいる。又40年前に家を建てた時には、チャペックが「園芸12ヶ月」の中で好きだと言っているディルフィニウムを庭にたくさん植えて楽しんだものだ。キンポウゲ科ディルフィニウムは今は花屋で珍しくもないが、40余年前はまだ少なかったと記憶する。ここで話を変えるが、今やAIブームで、来年あたりは第4次ロボット革命でAIで動くロボット工場が実現するとの予想を立てる向きもある。聞いた話では長崎のハウステンボス(私は此処で来たばかりの時に行ってガッカリした。と言うのは、オランダについて歴史的興味が満たされるのかと思っていたら何の事はない、土産屋のつながりだったからだ)では宿泊客の食事は180台のロボットが担当している由。真意のほどは私に関係ないとして、ロボットとくればチャベックだ。と言うのは、チャベックが有名になった1920年作の「ロボット」によってだからだ。これは早くも1924年7月に土方与志がひきいる築地小劇場で「人造人間」なるタイトルで上演された。私がこれを読んだのは、やはり大学時代に買った全100巻の「近代劇全集」の中の1冊でだ。さて、この3月で閉館となった東京武蔵野館にある「ブレヒトの芝居小屋」でチャペック原作の「クラカチット」が上演された。これ田木益夫訳(楡出版)がある.1924年作のこれは原子爆弾の原型というべきクラカチットをめぐる国際的争奪戦を描いたものだ。ところで、成文社版全6巻の中3冊を訳した石川達夫は「チャペックを理解する最大のキーワードは相対主義だ」と言う。イデオロギーにとらわれず、あくまで自由な立場にいようとする覚悟だ。という訳でいい機会だからチャペックは初めてという人もいるだろうことも考えて入門書としてもいい千野栄一の「ポケットの中のチャペック1 」を出しておこう。
更に又、目下のペット(犬猫)ブームにちなんで代表作の一つ、愛犬についてのエッセー「ダーシェンカ」を含む「チャペックの犬と猫のお話2 」を足そう。因みに「ダーシェンカ」には他に小川浩一訳(講談社)、飯田涼介訳(新潮社)、保川亜矢子訳(SEG出版)と数種の訳があって、かつてコラム二ストの中野翠は伴田訳を「おすすめ」としたが、ロシア、ポーランド学者の沼野充義は、これは「英語版からの重訳のようだ」を理由に、これをしりぞけて保川訳がいいとした。只私は保川訳はもっていないので、石川達夫訳を出した訳だ。
昔、漫談、活弁で鳴らした徳川夢声の話だが・・・戦後葉山の沖で悪童仲間と泳いでいた時、ちょっと離れた所に泊まっていた船に釣りびとらしき人がいるので、おーいと手を振ると、その人がやおら立ち上がって山高帽を脱いで丁寧に頭を下げた。ハテナと思ってよく見ると、それはナント昭和天皇で、オッタマゲかつ恐懼した夢声らは海に潜ってしまった云々。
昭和天皇はヒドロ虫の世界的研究家だ。ヒドロ中は空腸動物で、その中のある種のものはクラゲのように水中を漂うと言うから、釣りをしているように見えた昭和天皇も、おそらくをれをすくったりしていたのではなかろうか。戦時中はこの天皇が生物学に興味を寄せる姿に「軍事に熱心ではない」と非難する側近もいたらしい。昭和天皇の後を継いだ平成天皇も歴とした生物分類学者だ。専門は「ハゼ」だと言う。
「ハゼ」は「馳せ」=敏捷で、水中を敏捷に泳ぎまわるからだと言うのが「言海」の説。成程!! 学者によると日本国内にいる魚は約4,500種、ハゼはその1割だと言う。で、平成天皇はこのハゼの最古の学名を探求した由。研究者としての力は並のものではなくて、中国で2008年に30年の研究を経て出来た「中国動物誌、硬骨漁網」なる大作は、伍(ウー)漢霜(ハンリン)なる中国人の研究者への平成天皇の指導、協力あっての成果だと先日新聞に出た。これぞ美談だ。さて昭和、平成両天皇は何故生物学を専攻したか、その業績は如何なるものなのかetcを知るにいい本がある。「殿様生物学の系譜3 」だ。編者の一人、柏原精一は「生物学」は「政治の対極」にあるので、殿様と天皇はそこへ「逃げ込む」と言う。私はこの説に疑問を持つが今は措く。
戦没画学生の慰霊の美術館とも言うべき「無言館」を窪島誠一郎と共に1997年に建てた画家野見山暁治の新聞連載の自伝とも言うべき「語る」が終わった。窪島は周知のように夭折画家の作品を収める「信濃デッサン館」の主だ。私は「デッサン館」には3度。「無言館」には1度行った。野見山は「九条美術の会」の発起人の一人だ・私が読んだ野見山の最初の本は「エッセシスト・クラブ賞」を受けた「400字のデッサン4 」だ。
その第1章「ひとびと」の①の「戦争画とその後ー藤田嗣治」が強烈だった。長いけれど必要だから写す。「学校で絵を描いていたら誰かが面白いぞ、と大声をあげながら教室へ入ってきた。今なア、美術館に行って、お賽銭箱に十銭投げるとフジタツグジがお辞儀するぞ。本当だった。隣の美術館でやっている戦争美術展に行ってみたら、アッツ島玉砕の大画面の脇に筆者の藤田嗣治が直立不動の姿勢でかしこまっていた。当世規定の国民服で、水筒と防護マスクを左右の肩から交互させて背負っている〜」それが「戦争がみじめな負け方で終わった日フジタは〜戦争画の画面に書き入れてあった日本紀元号、題名、本人の署名を丹念に塗りつぶし〜」。これを読んで以来私はfoujitaを信用しない。今フジタの展覧会で若い林洋子なるキュレーターが藤田を再評価しようと努めているが、私はその姿勢に甚だしい違和感を持つ。藤田は単なる便乗主義者で虎の威を借りる威張り屋の小男だと確信している。藤田を評価する気に全くなれぬ。