第041回「人間大好き」中野好夫と、娘利子の本

`93.10.5寄稿

受験勉強が好きだ、という人は余りいないでしょうが、本好きの私には、大学受験の勉強が好きか嫌いか、の前に困ったことが二つありました。一つは「参考書」でした。この受験用の「参考書」というもの、本には違いないのですが、私にはどしてもなじめない。おおげさにいうと、「書物」とは思えない、そして自分が愛蔵するに足るものとは考えられない。つまりは、自分が好きな本を並べている書棚に置くにはふさわしいものとは思えない、というところが私にはありました。

それだから、数学だの生物だのという科目は仕方ないとしても、人文系の学科に関しては、私は「参考書」を出来るだけ使わずに、普通の本を、言い換えると書棚に並べて、他の本との間に違和感の生じないものを読んでました。

もう一つの悩みは、○、×式の事項だけ覚えて行くやり方は私の性に会わず、例えば世界史なら、各時代の終わりについている参考文献を、出来ることなら、全部揃えて、全部読んでみたい、というのが私のの望みであり、又やり方でしたから、授業の方はローマ時代を過ぎていても、私の方は、まだ、坂口昂(たかし)の「世界に於けるギリシャ文明の潮流」などという本を読んでいると言った具合で、これでは当座の試験に役立つ知識には,中々つながらないのでした。

世界史上の画期的な(かっきてき=今までになかったことで,新しい時代を開くもの)出来事と人とを12例とりあげた中野好夫の「世界史の十二の出来事1 」もそんな時に読んだ本です。

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今棚から出してみると,裏表紙に「昭和29年3月2日室蘭市大町弘文堂にて求む」とあります。著者中野は前年の昭和28年「東大教授では飯が食えぬ」と英文科の教授を止め,フリーで盛んな文筆活動を始めたばかりでした。

級友のNがこの本を見て「これだけ覚えておこう」式の受験参考書思ったらしく、「一寸見せて」と手に取ったあと、「あれ、!参考書じゃないの」とすぐに返してよこしたことを覚えています。(因みに,この本、新潮社が” one     hour    liburary  =   一時間文庫 ”と銘打って売り出したシリーズの一冊でしたが,この本のみならず他の本も、とうてい、一時間で読み切れるような軽い内容のものではありませんでした。

私は,中野を,サマセット・モームの「月と六ペンス」の名訳者として前から知っていましたが、大学で文学部に入ってからは、元々英文学者である中野の本に親しむことがおおくなりました。

今でも忘れないのは、大学1年の夏休みに、ジョセフ・コンラッドの「闇の奥」を読んで来るようにとの宿題が出されたと時のことです。

この作品は昭和15年に河出の「世界文学全集」の一冊として、中野の本邦初訳で出ているので、その訳本を古本屋で探すのですが、これが見つからないのです。間に合わないので、研究者の「小英文学叢書」の一冊を参考にして、大学ノート2冊に、ようよう訳し終えましたが、話が訳ながらこれが、分かったような、分からないような、通じたような、通じないような、甚だ変なものでした。

それが、昭和33年になって、中野の新訳が岩波文庫にはいったので「待ってました」と読んでみると、訳者あとがきに「〜コンラッド独特のスタイルと相俟って、正直言って大変な難物だった」と会ったので、正直にいって「中野にしてそうか」とホットしたものでした。

話しはかわりますが、大学の同級生、渡辺純子さんの恋人が慶応大学生で、彼によると「中野好夫の娘がクラスにいて、これが男か女か分からないほどきかないの」という話しでした。

ここで「きかない」ということは、今流にいうならば「つっぱっている」ということです。この「きかない娘」のことは、この年月、きれいさっぱり忘れていましたが、最近「父、中野好夫のこと2 」が出たので、読んでみると、あの「きかない娘」が書いたものとわかりました。

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中野は、あらゆる人間像を造形した劇作家シェークスピアを好み、人間の皮肉な観察者S・モームの作品を専ら(もっぱら)訳し、自らも「人間うらおもて」などの著書を持つ「人間大好き」人間です。

中野は同時に又、堂々たる論陣をはって、戦後の思想界をリードした行動派で硬骨(こうこつ=自分の意志をかんたんにまげぬこと)この猛烈な「男」を描くには、この「きかない=つっぱった娘」をおいて他にはない、なかったであろうと実感出来る、いい本です。

この「きかない娘」が書いたいい本をもう一冊紹介しておきましょう。

「H・ノーマン3 」です。ノーマンは日本生まれのカナダ人外交官.すが、「忘れられた思想家、安藤昌益」を書いて、この江戸中期の謎の思想家を世界に知らせた歴史学者でもありました。

父、好夫とも親交の会った悲劇の人、ノーマンを、利子は、実に暖かい筆致で描きます。

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(つけたし)

映画「我が愛の譜〜滝廉太郎物語」がヒットしていますが、名曲「荒城の月」の作詞者、土井晩翠(つちいばんすい)の娘が、好夫の妻、きかない娘の母親で,つまり、利子は晩翠の孫です。

  1. 中野好夫.世界史の十二の出来事.筑摩文庫(1992) []
  2. 中野利子.父、中野好夫のこと。岩波書店(1992) []
  3. 中野利子.H・ノーマン.新潮社 (2001) []

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