第066回 昭和新山「麦圃生山」写真集

`95.2月16日寄稿

太平洋戦争の時、私は国民学校生(=小学生)でしたが、一時洞爺湖畔に兄弟揃って疎開(そかい)していました。父の友人が今の「ホテル万世閣」の前辺りに住んでいて、その離れを借りたのです。その頃の洞爺湖畔は,今のようにホテルや旅館が林立していませんから、朝起きると日本手拭を持って通りを横切り、湖畔に下りて行って、顔を洗い、口を漱いだものです。寝呆ケマナコが、はっきりして来ると、今度はチャプリ、チャプリと静かに寄せては返す波に,逆らうようにして、日本手拭を両手で広げてすくうと、2㎝にもみたないような海老が手拭に、それこそ「つくだに」でも出来る程とれたもので、実際それを食べたものでした。

この海老何と言う種類かと、長年気になっていましたが、先頃苫小牧の「ウトナイ。サンクチュアリ」の「ネイチャーセンター」でウトナイ湖に棲むと言う身体の透明なミヤマ(深山)?ナントカ海老(又又失念とは情けない)を見て「あっこれだ」と心中叫んだものでした。

その頃(太平洋戦争末期)「万世閣」には特攻隊の予備軍とも言うべき飛行隊の青年(少年?)らが共同生活を送っていて、湖上には、水上飛行機が何機か浮かんでいました。

敗戦の日、天皇の例の放送のあと、渚に整列させられた彼らが、上官からいわゆる“焼き”を入れられるのを建物の蔭から見ていた記憶が、私にはあります。飛行帽をかぶったまま、往復ビンタンを張られて、鼻や口から血を吹き出させている彼らの姿がいまだに目に浮かびます。

それはともかく、日月、原因がはっきりとわからぬのが残念なのですが、或る夜、この湖畔から、夜を徹して伊達の関内の方面に非難したことがあります。その時馬車の上で、ムシロか何かにくるまりながら夜空を焦がしている「昭和新山」の火を見上げたこと、その火の赤かったことが胸に焼き付いています。

さて、「昭和新山」と言えば、今では知らぬ人もないと、思われますが、道外の人のために、いささか説明すると...

昭和18年12月28日夕に発生した異様な地震をきっかけに、一日1mを超える上昇スピードで麦畑が隆起して出来た標高407mの火山です。


しかし、当時は戦争中と言う事で、“国民に不安を抱かせてはならぬ”との当局の判断で、報道は規制され、国民はこの山の生成を知ることが出来ませんでした。

それから丁度50年月が過ぎましたが、昨年末「麦甫(ばくほ)生山」と題する火山生成を物語る写真集が出ました。タイトルの意味は、「麦畑山を生ずる」ということです。

過日、雪の静かに降る休日、私はこの写真集を求めて、昭和新山の麓にある「三松正夫記念館」に行きました土産物屋もシャッターを半ば降ろしてひっそりしている中「記念館は開いていて、三松泰子さんが丁寧寧に腰をかがめてこの写真集を手渡してくれて、私は恐縮しました。

又又道外の人の為に説明すると、三松正夫は「昭和新山」の生成の全てを記録し、世に知らしめた人泰子さんは正夫の孫娘で、夫君の記念館館長三朗さんと共に館を守っている人です。

私は、そのあと近くの温泉に浴して、湯上がりにこの写真集をひもどきましたが。一枚一枚の写真が物語る歴史に魅かれて時のたつのも忘れ、あやうく風邪をひくところでした。

この写真集は面白い。そして、特筆すべきは、内容の豊かさに比しての価格の安さです。今どき¥1,500はありがたい程に安い。そして、この写真集を見る前に読んで欲しいのが、前記、三朗さんの書いた「火山一代ー昭和新山と三松正夫ー1」です。

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この三朗さん「〜所謂、遊びという物をまるで知らない。キャバレーは勿論、居酒屋の暖簾(のれん)をくぐった事もない。」と言う、酒飲みの私からすると、信じられない存在ですが、では何が好きかと言うと、「〜正夫の厖大な資料の整理や、著述物に目を通すのに時を過ごす方が楽しかった。」というのですから、これにはダマッテ脱帽!!

書かれるべき内容をもった生涯を送った正夫と言う存在と、それを書き得る、学究肌の頭脳と教養と、根気を持った三朗と言う存在と...を思うと、天の配剤(はいざい)という言葉が浮かびます。

タイトル通り、この本正夫と昭和新山とを語って余すところがありません。その上さりげなく語られる自分たちのこと、そして、「記念館」が成るについての事供も、読んで味わい深い物です。

「我妻サン=ワイフ」は、この本を、笑ってみたり、涙ぐんでみたり、時には声を出して読んできかせて呉れたり...とまこと、賑やか読み方をしてくれましたが、皆さんもこれを手にとって、みればそれを無理からぬことと思われるでしょう。そして、上記2冊の本、或いは教育委員会を通して、或いは本屋などで注文して入手するのもいいですが、出来れば「三松正夫記念館」を訪れて求めるのが一番いいでしょう。

白煙を吐く「昭和新山」を眺め「記念館」に充満している資料を見、そこを守っている「火山二代」の二人姿を目にすれば、新たな感慨が胸に生まれるのは必定(ひつじょう)です。

左は、室蘭工業大学生10数人と共に、正夫氏を訪ねて「昭和新山吻語」(誠文堂新光社)を求めた際に本の見返しに正夫氏が書いてくれたものです。


  1. 三松三朗.火山一代.北海道新聞社(1990) []

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