`05.6月寄稿
大学時代に下宿していた場所は、一葉や漱石の小説の舞台となった西片町(にしかたまち)と言う、東大農学部前に広がる古い町だった。下宿にK子さんと言う共立女子大・英文科生がいた。K子の父は群馬県の県会議長で、家は織物業だった。女系家族で、K子は三女。次女が日本女子大英文科で、私の姉と一緒。その縁で、大学を出て外資系の会社に勤めていたわが姉の下宿(つまり私が同居している)へ妹のK子が入ったのだった。K子の家は館林にあって、徳川綱吉が城を築いた所...と」と言うのは利根川と渡良瀬川(わたらせ))とに挟まれたこの地帯では、館林の町だけが土地が高いからだ。この館林は「つつじ」の名所で、何でも「勾当の内待」が植えたのが始まりだそうだ。「こうとうのないじ」と言うのは太平記に見える美女で、後醍醐天皇に仕え、後、新田義貞の奥さんになり、義貞が越前の戦いで死ぬと、琵琶湖に入水(じゅすい)したとか言う女だから、700年も昔の話で、真偽いずれにしても大したもんだ。
私はK子さんが休みで帰省する時などにふっついて何度か館林に行って、つつじも楽しんだし、ナントカ沼で捕れる雷魚の天麩羅(実に美味)も食ったし、近くにある「分福茶釜』で有名な「茂林寺」(もりんじ)にも行った。文福茶釜は「守鶴」なる坊さんがイタク愛用した釜で、いくら汲んでも湯がなくならず...で、まこと不思議な釜よ、であった、これ実は狸が化けていた、と言う例の釜だぞよ。
館林の殿様は「松平」で、K子の長姉のムコどのは、この家から来ていた。最初K子の家に行った時、慶応を出たと言われていた、その殿様の後裔(ごえい)たるムコ様は、私に第二外国語は何?と聞いて、私が習い初めのフランス語と答えると、いきなり紙を出して、それにスラ〜と何やら書いて、これは何だ?と聞いた。私は詩人ロートレモアンの「マルドロールの歌」を訳した栗田勇にフランス語を教わったと言うだけで、覚えた、と言うことでは決してなかったから、これにははなはだ困惑した。分からなかったからだ。
あとで調べてみると、それはナント詩人ヴェルレーヌの、例の「巷に雨の降る如く〜」であったが、これがトラウマ(?)となって、いまだに私は「殿」なるものに弱いのである。
K子の家で退屈すると、私はK子に連れられて川へ散歩に行ったが、きれいな形のよい木橋が架かるその川は、本流か支流か知らぬが「渡良瀬川」だと言うことだった.私はその時、露知らなかったが、この川は実は死の川だったのだ。あとになって朝日新聞の記者が書いた文章を読んで私はびっくりした。その文章は「〜その流れに、水遊びを楽しむ子供のしぶきも、釣り糸をたれる影のひとつも、ついになかった。それは人間を拒否し流れる川の奇怪ともいえる表情であった〜」。
記者はこう書いたあと、その川の水を飲もうとして「〜試みに口にふくんだ水は、しぶく、かすかにのどを刺した。がそれは足尾の歴史のにがい記憶の故であったろうか、〜」。となる。
これは、いかなる事かと言うと、渡良瀬川上流には江戸幕府の銅山として有名な足尾銅山があり、それを明治10年になって、古川鉱業が受け継いで操業を開始した。そして鉱毒をたれ流したのだ。たれ流しつつ、足尾の銅山は日本一の銅山に成長し、社長たる古川市兵衛は「鉱山王」と呼ばれるに至った。
何年前だったか、ヨーロッパの「からくり人形」を蒐めた展覧会があって、私も観に行ったが、その会場は、この古川の旧邸で、それは、それは、立派で広大なものだった.建物の背後には、段々畑のような感じでバラ園が広がり、私は「からくり人形」よりも、この建物の方に一驚した。
それはともかく、「たれ流し」の方に話を戻すと、その結果どうなったか?と言うと、鉱毒の川は明治23年になって大洪水を起こす。そして当然のことに辺りの千数百町歩の田圃に変化が起きる。今迄の良田が突然に、一本の稲も生えてこない不毛の地になってしまったのだ...
てなことを私が思い出しつつ書いているには、訳があって、それは苫小牧で「お話ジャングル」を主催する墨谷真澄さんから、次の如き手紙が来たからだ。
「〜足尾を通ったので寄ったのですが、不思議な町でした.資料館は日曜日だったので、銅山跡に行ったのですが、事務所や作業場も残っていて、すごくいたんでいて、ガラスは割れてひどい状態なのに、人が働いているんです!何をしているんでしょうね。足尾銅山に関する本があったら教えてください〜」
このあと電話が来て、もう少し詳しく聞くと、その場所は、まるでアメリカギャング映画で、抗争やら殺しの場面に使われる廃墟同然の工場群のようであった由。
手紙を読んで私が最初に連想したのは、北海道に移って来た、いやざるを得なかった農民たちのことだ.これ又どうゆうことかと言うと、鉱毒は田んぼの稲を枯らしただけでなく、農作物全部に被害を及ぼした。そこで操業を中止せよとの農民運動が起きる.当たり前の話だ。この時、代議士ながら農民側に立って運動の中心をなったのは改進党の「田中正造」だった。しかし、これ又当然のことに、国家権力はこれを鎮圧する。そして流域や谷中村など8町村の農民を半強制的に移転させる。その結果96戸の農民が明治44年以来、北海道は佐呂間町に来た、イヤ、来させられた。
美帆高校の先生をしていた故小池喜孝の調査によると、当時の平田東助なる内相は、谷中村を社会主義の拠点とみなして、これをつぶそうと計画し県に一任うした。県から命令を受けた吉尾なる下都賀郡長は、札幌まで来たものの、当時のサロマベツには来もしないで、実際には北を向いて開けている土地を「南に向いている開いている」と偽って、農民にサロマ入植を勧める。しかし「行くなら北街道迄の旅費80円を出すが、行かぬなら始末書を出せ」と。
さて、入植の結果は、と言うと、冷害、凶作、過疎化で、昭和46年には離農者が続いて12戸が残るのみだったが、その人達も昭和46年には旧谷中村へ集団帰郷して、サラリーマンに転向した.と言う訳ですが、墨谷さん、ここにあげた本を読んでみてください。図書館になければ(おそらくないだろうな)私のを貸します.幸い岩波文庫には「田中正造文集1 」
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や荒畑寒村の名著「谷中村滅亡史2) 」が入ってますから、これは是非ご自分の本棚に加えて下さい。子供向けですが、大石真著「たたかいの人―田中正造ー3 」偕成社文庫)といういい本もあります。
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