`06.2.22寄稿
昔「暁の超特急」と呼ばれた陸上短距離の選手がいた。吉岡ナントカと言う名前の人で、小さい頃読んだ本では、確か馬に綱を引かせ、それにつかまって走って脚力を鍛えた、とか書いてあった。私はこの話に余り感心しなかった。逆に何を感じ、考えたか?と言うと、「こんな無理せんでもなあ、こんな事しても馬にも鹿にも勝てっこないなあ」と思ったのだ とは言っても、聞くところによると、今は「春うらら」とか言う、滅法遅い馬がいるらしいから、これには並の人間はともかく、選手ともなれば勝てるやも知れぬ。
しかし「こんな無理せんでもなあ」との思いは、今でも強くあって、「無理せずに各々分野分野でそれの能力に秀でた動物にまかせておけばいいのになあ」といつも思う。
早い話が水泳、ありゃやっぱり魚にはかなわんよ。速度といい距離といい、潜水時間といい、魚には絶対かてぬ。あれ何て言うんだけ?鼻に、室蘭弁で言うならば、“ツッペかって”水に潜りなら踊るやつ。あれくるしかろうな。しかし、あれとてイルカやラッコには絶対勝てんなあ。私しゃアレルギー性鼻炎だからして、土台、ツッペかっただけで窒息すること間違いなしだなあ。飛び込みだって、トドやイルカのするのを見たが、ちっとも苦しげではなかったなあ。と言う訳で、他人は知らず私個人的にはスポーツの「特訓」と言うことには余り興味がない。
昔、多摩動物園のオランウィーンータン(だったか、ゴリラだったか)の檻の前に張り紙があって(注意書き)「物を投げるな、真似してその通りに返してくるから」と言うようなことが書いてあった。
その文章は念が入っていて、更にアンダースローで投げると、向こうもアンダースローこっちがオーバースローで」放ると、向こうも上段に構えて投げる。しかも、ものすごく命中率が高いから危険です...とあった。その頃は立教大学出身の杉浦とか言う投手がアンダースローで有名だったから、何だかとてもおかしかった。へえ、そうか、下手投げでやると、その通り返して、しかもコントロールがいいのか!動物にはかなわんなあ...と言うのが、その時の印象である。序でに言うと、ライオンの檻の前には「ライオンが尻を向けたら要注意、ライオンの小便は真っ直ぐ噴射します」と言うもので、これもおかしかった。尻目にかけられる所の騒ぎではないなあ。
まあ。こんな話はまだあるが、こんなことを書き出したのは他でもない。冬のオリンピックの最中だから、メダル0なんてことに気が滅入るのではなくて、「無理だよな」が先にくるからだ。あのスキーのジャンプだって、着地の時にブレルナって無理だよな。鉄棒も同じだ。高いところから飛び降りて、微動だにするなって方がどうかしている。モーグルとかもそうだ。人間業を超えていると、私は思っている。だからオリンピックを見ていて、寝不足だと何て現象は、私には分からぬ。土台、私は、テレビを見ぬ。
それでも、「トリノ」と聞いて、私は友人2人に聞いてみた。「トリノのことで、何か報道しているか?」と。「うん、大体がうまい食べ物とか、土産とか、そんなところかな」が答えだったが....から....私は矢張りなあ、と思いつつ、「トリノ」来るなら、せめてこの人に触れて欲しかったなあと思う。この人は動物に勝てっこないことをした人ではなくて、動物に出来ないことを、と言うことは、人間しか出来ぬことをやった人だ。その人の名は?「まち子」ハハ、まさかね。
その人の名はアントニオ・フォンタネージ(1818-1882)、イタリア人だ。1869年(明治2)にトリノのアルベルテーナ美術学校の風景画の教授として招かれた実力ある画家だ。そして1876年7月には、日本政府に招かれて、11月から「工部美術学校]で油絵を教えた人だ。「近代の美術1 」
つまり、日本で初めて「西洋画法]を教えた人だ。この人に学んだ人達は?と言うと、次のようなすごい顔ぶれ。例えば浅井忠、例えば小山正太郎、そして山本芳翠(ほうすい)、五姓田義松(ごせだよしまつ)等々。フォンタネージは一言で言うと、日本近代美術の恩人だ。トリノで日の丸を!!と絶叫するのも結構だが、そのほんの合間にこの人に一言位は触れて欲しかった。文化の面から言うと、ちょいと片落ちではあるまいか。
ところで、フォンタネージと一緒に来日した人に、彫刻家のヴィンセンツオ・ラグーザ(1841−1927)がいる。この人は様式彫刻の技法を初めて 伝え、かつ又、イタリアに対しては、日本の漆の技法を移植した人だ。おまけに彼のモデルをつとめていた清原玉と結婚して帰国し、生地シチリアのパレルモで 工芸学校の校長を勤めた。ラグーザ玉・の方は副校長となり、水彩画と蒔絵をイタリア人に教えた。日本美術の恩人たるフォウンタネージとラグーザと、その 妻・玉3人の名を挙げたが、実は上記2人の他フフォンタネージの後任として、同じく「工部美術学校」の先生となった人にフィレッチなる人がいるが、この男 は生徒に人気がなく、逆に排斥されたような人であるからして、この人は今取り上げない。「ラグーザお玉自叙伝2 」
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その代わりにと言っても、軽んずると言うことではなくて、取り上げたいイタリア人の今一人は、エドアルド・キヨソネ(1832-1898)である。 何か日本人みたいな響きの名前の人だが、この人は、フランクフルトのドンフルド銀行に勤めていた。ところが明治維新になって大名時代に通用していた藩札な る物が使用不可となったことから、明治政府は、このドンフルド銀行に新紙幣の製造を依頼することになり、それが縁でキヨソネが来日し、公債や切手などの図 案作りと銅板作りに従事した。余談ながら、西郷隆盛の肖像画を描いたのはこの人だ。
「キヨッソーネ研究3 」
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最後に、フォンタネージ等が来日する前に、オランダの書物で画法を研究して、人に授けることをしていた川上冬崖(とうがい)を紹介する。この人が蒔いていた洋画の種があったからこそ、フォンタネージ達の授業が円滑にいった、と言っていいーと私は思う。但し、この冬崖何の故あってか、54歳で熱海で謎の自殺をとげた。
「川上冬崖4 」
さて以上の人々は、動物には間違っても出来ぬことを成し遂げた。「トリノ]をきっかけに、メダル0に興奮せず、イタリアと日本の文化てなことに思いをはせてみるのもいいのでは??