`10.4月13日寄稿
4月初めだと思うが、室蘭民報社の野崎己代治記者が来て、来年は室蘭の名誉市民で芥川作家の故八木義徳の生誕100年の節目となるが、それについて一言、と言う。野崎さんは、私がこの市立図書館に招かれた時に素早く、拙宅迄取材に来てくれた人で、つまりは気心の知れた人だから、私は心開いて色々な事を話したが、そのあと「関係者らの声」として、民報紙上にのった所をみると、野崎さんは、私が語ったあれこれを次のように上手にまとめていてくれた。
〜元市立図書館長の山下敏明さんも、との前書きでこう続く「北方(ロシア文学)の感覚を取り入れながら、コツコツ独自の世界を築き、文学の正道を歩いた人。忘れず読み続ける事が大事『海明け』などは(母校である)室蘭栄高校の全生徒に読んでほしいくらい。読み継ぐことが文化の継承になる」と願っている。読んで私は自分が伝えたいことが過不足なく表現されたことに満足して、野崎さんに内心感謝した。
ところで上記の文は読んでお分かりのように民報紙にのせた「本の話」の一話だが、その中で読み継ぐことが「供養」となると言うのが、今回も野崎さんに伝えた所の私が話したい主旨なのだ。
野崎さんの談話のおかげで、私は或る事を久しぶりに思い出していた。
それはもうかれこれ40年程も前の話だ。室工大勤務の私に、誰だったか忘れたが電話がかかって来た。一つお願いがある。と言う、そのお願いとは、八木義徳が来蘭するので、八木を囲んで室蘭文芸協会が座談会を開きたいのだが、
(その時点での)一番新しく出た本である「摩周湖」が図書館にもなく、又協会員も持っていない。ついては蔵書家との噂のある貴方がひょっとしてお持ちでないか?して又おもちならばちょいと座談会の前に貸してもらえないか云々(うんぬん)
私はその頃、室工大で、学生と一緒に本を読み続けてる身であったから、室蘭の文化協会はおろか、文化連盟の人達をも殆ど知らなかったが、まあ担当者は困っているのだろうと思って、(私は本を貸さない主義だが)この時ばかりは貸した。座談会は、昭和47年9月13日.夕.6:00から図書館3階の講堂(今ふくろう文庫の美術書を置いてある部屋)だった。
私は本を貸した手前、出席せねばなるまいと、来てみた。八木を囲んで両脇に並んだ人達を私は知らなかったが、その中の一人が、「私共、八木先生の作品を日頃出るつど(だったか)受読している身として〜」てな挨拶をして八木の話が始まった。因みに私が貸した「摩周湖」は昭和46年4月25日発行でああるから、この時既に一年余が過ぎている訳で、となれば未だ読みもせず、おまけに持ってもいずでは、余り「受読者」とは言えないんじゃなかろうかなどと内心私は思わぬではなかったが...
その八木の話の中で、私がまるでこりゃドストエフスキーの人物だわと思ったのがあって、それは、この北国の室蘭に春が来る、雪が溶け始めて地面が表れる、すると私は、オーバーを投げ捨てて、ガバッとその泥の上へ身を伏せて大地の香りをかぐのです。皆さんもおやりでしょう?と言った趣の話を聞きながら私はいや、俺はそんなバッチイまねはしたことがないな、と甚だ非文学的なことを考えていたのだった...がそれは今おいて、
やがて「本」が返されてきた。一応汚されていないかを確かめようと函から出して表紙をめくると、八木義徳のサインが目についた。万年筆で書くと聞いていた八木の端正な字で私はあーサインしてくれたのか、と思いつつ、今度は裏表紙に目をやると、何やら、落書きのようなものがある。これはしたり!こりゃ何だ、と思ってみると、これぞ金釘流と言うのか、八木とは似ても似つかぬ字で「蟹は甲羅に似せて穴をほる」とある。これにはおどろいた。これは「蟹は自分の大きさに合わせて穴を掘ると言う事から、人は自分のっ力量、身分に応じた言動をするものだ。又はそれぞれ相応の願望を持つものだ」と日本国語辞典に説明してある。
書いた人の信条か、座右の銘かは知らぬが人の本に書く神経が分からぬ。どんな穴でもいいから掘るなら1人で掘ってもらいたい。おまけに「借読の記念に」とある。人から借りた本に一々こうしたことを書き付ける人がいるんだろうか。私としては、本を汚された思いだが、驚き、諦め...今に至っている。因みに私は人からめったに本を借りぬが、借りたとて、たのまれたとて、こんなことはしないな。人様々だ。