第307回 津波で沈んだロシア船「ディアナ号」

2011.3.寄稿

3月17日に私は「室蘭防災・情報機関懇話会」なる所から講演を頼まれていた。この会は、気象台台長・警察署長・北電支社長・JR各駅長・労働基準監督署長と言った面々から成る物で、文字通り「防災」について種々、意見や情報を交換するためのもので....と言う事で、私は頼まれた時に直ぐ頭に浮かんだ事から、卓話のタイトルを「日本人の災害観―世界に冠たる鯰(なまず)絵」と決めたこれは安政の大地震の時に現れた「鯰絵」なるものを使って、災害に対する日本人の楽天的と思えるような態度と、復興への不屈な精神を語ろうとしたものだ。

私が代表を勤める「ふくろう文庫」には、既に明和9年の「目黒行人坂の大火」を描いた絵巻を初めとして、江戸の大火の資料とも言うべき美術品が何点か揃っている。「鯰絵」もその一つで、地震を興すのは「鯰」だと思っていた当時の人々が、或いは「鯰」を打ちこらしめ、いたぶり〜かと思えば、復興景気が出現すると、今度は打って変わった態度で、この好景気は「鯰様」のおかげ、とて「鯰大明神」と平つくばる、などと言った事供を、洒脱きわまる絵にしたものだが、この絵の「民俗学的価値」を論じたオランダの研究者・C.アウェハントの論などを引きながら、日本人の災害観を語ろうとしたのだった。この講演に続いて、私は4月9日、室蘭・伊達・登別3市のソロプチミストの合同総大会でも講演を頼まれていタ・・・・ノだが、この両者、今回の大災害でいずれも取りやめとなった。

前者は、関係機関の長が皆今回の災害に関係あって、多忙を極めている事が原因であり、後者は伊達の会員達の中に、故郷を被災地に持つ人達がいて云々と言う訳だ。

ついでに言うと、DVDのTSUTAYAに、今中国作の地震物が3本入っているが、これも新聞によると、東京などで公開・放映を中止はじめていると。

ところで、先刻「安政の大地震」と書いたが、これは安政2年(1855)10月2日の夜、江戸で起こった大地震の事で、この地震いわゆる「直下型地震」で、その震源は文字通り江戸直下であったと、今では推定されている。この時のマグニチュードは6.9であった。余談だが。これが今江戸ではない東京に起こったと仮定したら、それでも石原は、これを「天罰」と言うだろうか。まあ、馬鹿を相手にしていては、津波もおさまらんだろうから、ーそうそう、この時は幸いな事に津波は起きず、只、東京湾の海水が動いて、深川、木更津などの沿岸に少しばかり海水がうちよせた(そうな)

津波と来たら、この「安政の大地震」の前年(1854年12月23日=嘉永7年11月4日)に、マグニチュード8.4の大規模地震が起きて、伊豆半島に巨大な大津波をもたらした。これを安政東海地震」と呼ぶ。あれ?「嘉永」に起きたのに「安政」とは?。実はこれ、この地震のあと、27日に改元されたのだ。改元したけれども、「安らかな政治」とはいかなくて、その正反対の動乱の時期となった。

この未曾有の津波を体験した外国人がいた。ここで又余談。もし今回の地震であのKY(漢字が読めない)の麻生がまだ総理だったらこれを「みぞうゆう」と読んで、万天下に恥をさらした事だろう。本人は今ホッとしているのではなかろうか。

さて、その外国人は、セント・ペテルスブルク生まれのエフィーミー・ヴァシリエヴィッチ・プチャーチン(1803-1883)で、ロシアの海軍提督だ。何故にこの時、プチャーチンが下田に居たか?と言うと、日本との国交及び通商関係樹立の特命を受けて、1853年7月18日に長崎に来航、この時国境問題の交渉を開始して、結果、12月21日下田に来て、「日露通商条約」を結んだのだ。そして地震、津波と来たのが23日。この時津波でプチャーチンの乗っていた軍艦ディアナ号が大破した。このディアナ号の大破、即ち「もう使えず』が面白い歴史を引き起こす。と言うのは、乗る船がなくなったプチャーチン達は、幕府の許可・助成をを得て、下田近くの良港・戸田村(へだ)で、ナント、洋鑑を作り始めたのだった。このディアナ号は、乗組員587名、排水料千トン、全長60m、幅15mと言うもの。もちろんこれと同じ船を作る事は出来ない。幸いな事に、ディアナ号沈没の際、救い出した荷物の中にスクーナー・オープイト号の設計図が載っている本があって、洋鑑(と言うほどのものではないが)はこのヨットの図版を基にして行われた。「駿河湾に沈んだディアナ号1

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この初めの洋船を作るにあたって協力したのが、後に戸田村七人の船匠」と呼ばれた上田寅吉他の船大工。2本マストのスクーナー型帆船をプチャーチンは「戸田号」と命名した。上田寅吉は後、榎本武揚と供にオランダはドルドレヒトへ留学。帰国後は榎本と供に開陽丸で函館へ脱出、維新後は横須賀造船所の技師長となった。つまりは、日本における近代造船史を身をもって体現した訳だ。

プチャーチンで面白いのは、帰国後アレクサンドルⅡ世より拝受した伯爵の紋章で、面白いと言うのは、紋章に描かれた2人の軍人の内、左側の軍人が日本人の兵卒なのだ。日露友好に尽くしたプチャーチンならではのデザインと言うほかはない。

そしてプチャーチンと日本の縁は、彼一代では終わらなかった。プチャーチンの死後、4年して明治20年(1887)の5月に、プチャーチンの長女オーリガ・プチャーチンが、父が戸田村で受けた好意を謝すべく戸田村に来て、プチャーチンの遺言だとて、その遺産から1.000ルーブルが戸田村の貧民にとて贈られた。更に又、オーリガ死後明治24年(1891)後も800ルーブルがオーリガの遺言で戸田村に贈られた。

「プチャーチン2

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万事威圧的だったアメリカのペリーと違って、プチャーチン外交が残した印象は、何かしら、人間的な暖かさに満ちていて、しかも、人間的なドラマにも満ちている。その中でも最も面白いのはプチャーチンの帰国を利用して蜜出国した「橘 耕斎(たちばなこうさい)」だ。ロシアで最初の日露対訳辞書たる「和露通言比考(わろつうげんひこう)」を書いた「タチバナノコオサイ」。プーチンだのメドべェージェフだのとは異質のロシア人、プチャーチンを知るべし。

  1. 奈木盛雄.駿河湾に沈んだディアナ号.元就出版社(2005) []
  2. 白石仁章.プチャーチン.新人物往来(2010) []

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