`11.06月寄稿
「第22回ふくろう文庫ワンコイン美術講座」のテーマは「魯迅」だった。この講座は毎奇数月の第4土曜日で、今回は5月28日。受付にはいつもの如く「ふくろうの会」の黒光ひさ・香川妙子の2女史が座り聴講者は60人余りだあった。ひさ・妙子の両人は高校以来の親友で、ふくろう文庫を支援する「ふくろうの会」では、久女が会計を、妙女が広報を担当してくれている.妙女はすこぶる向学心のある人で、実は今回のテーマ「魯迅」も妙女との会話から私が思い付いたものだ。あれは2月の中頃家と思うが、打ち合わせで来館した妙女が、居合わせた3人程の来客を交えての歓談中、きっかけは忘れたが「魯迅ってどういゆう人ですか?」と訊いた。私は「魯迅」のあれこれをしゃべっていたが、ふと、そうだ魯迅の版画運動は充分に「ワンコイン美術講座」のテーマになると気付いて、それを口にだした。そのあと妙女は、3月に出た藤井省三の「魯迅1 」(岩波文庫)の書評も持って来てくれた。「日経」に出た渡辺利夫(拓大学長)のものだ。と言う訳で、
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5月の講座に備えて、私はいつもの如く我が棚から魯迅関係の本を出して来て、今回は魯迅の文学を語るのではなくて、美術、それも「版画運動」について語ることから、40冊程にしぼった。「ぷらっと・てついち」の会場に持参して、受講生に見せたのがこれらの本だ。
妙女は、私が「本の話」で魯迅についてふれていることに気付き、開演直前に図書館の輪西分室からそれを借りて会場に持って来た。それにはどう出ているか。
魯迅の名が出るのは「本の話」の第152回「ドレフェスで開眼」1994年(平成6)8月9日)の箇所。
「〜高校2年生の時、内山完造が講演の途次に我が家に泊ったが、床の間の ” 山奥で読書中の隠士(いんし)、山道には薪を背負った樵夫(きこり)”と言う変哲もない画をみて、”働く人がいるのに本を読む人がいるのはよくない”と語った。私は憮然としたが、大学で「魯迅全集」(岩波書店)を読んだのはやはり内山との邂合に原因がある。後、内山から聞いた向坂逸郎の”嵐の中の百年−学問弾圧小史”(勁草書房)を読み、思想が思想故に圧迫されるという憂えるべき問題に感心がむいてからは”戦時下抵抗の研究”(みすず書房)で論じられるような事件や、転向問題の本にも気を配って来た。〜」
拙著からの長い引用で恐縮だが、私が高2という年齢で憮然(ぶぜん=自分の力にあまって、ぼんやりする)としたのは、言うなれば”そんなことをいわれてもなあ、持ち場持ち場だろうになあ”とでも言ったきもちだろうか。ところが1975年(昭和50年)に神奈川県立近代美術館で「中国木版画展」が行われて、それを見に行って買った図録を手にして私は思わず、愉快になって笑ったものだ。と言うのは、この展覧会は先述した内山完造の実弟・嘉吉(かきち)が寄贈した作品があっての展覧会で、図録で当の嘉吉「中国版画と私」と題して一文を草しているが、中で、魯迅の版画運動にふれて次の如くに書く。
「〜それについて思い出す話しがある。兄(完造)から聞いた忘れがたい話しである。ある時兄は魯迅さんと一幅の古い絵を見ていた。夕靄が遠近の山々を隔てている山水画だった。渓流沿いの木立を縫う山道を、重そうな薪を背負った樵夫(きこり)が帰って行く。兄は”いいなあ”とつぶやいた。と横から魯迅さんが言った。『だけどなあ老板(ローベー)、この人は苦しいんだよ』と。老板、とは上海語で、大きな店の主人を指す呼び方である。その時兄ははじめて絵を見る魯迅さんの深さに感動したそいう。『何を』『どう描いているか』を見きわめ味わう絵の観賞に置いて、『何を』と生活の次元に喰い入って見ている魯迅さんの観賞態度に打たれた。はじめて目を開かれた思いがした、と言うのであった〜」
魯迅は、かくの如き絵画観を持ちながら、魯迅帰国時(1900年初頭)国民の8割が文盲とされる現状に対処して、文学の代わりに絵をもって思想を伝えるべく、つまりその道具として版画を選んだのだった。
そして、絵の実技を持たない魯迅に代わって、魯迅が呼びかけた若人達に版画の手ほどきをしたのが、内山嘉吉だったのだ。嘉吉が中国で書店を開いている兄の所に夏遊びに行ったのがきっかけだった。因みに嘉吉はこの時小学校の絵の先生だった。
ここで遅ればせながら、魯迅とは=中国の文学者。本名周樹人(しゅうじゅじん1881〜1936)。日本で医学を学んで医者になるつもりが、後進中国の再生を計るには文学によって民族性そのものを改造するに如くはなし、として帰国し、国民の啓発につとめた人。小説、社会批評、海外文学紹介と、縦横の論を張ったが、前記の如く版画をもって文字を読めぬ人の思想教養のために版画運動を起こした。弟周作人は立教大学で学んだ知識人だったが、侵略した日本軍に協力したのが仇となって、「売国奴」とされた。末弟周健人は、後に新生中国北京の副市長となった。
魯迅が版画運動の際参考にしたのは、ドイツのケーテコルヴィッツやベルギーのフランツ・マゼレール、そして日本の蕗谷虹児の作品だった、ここに、実際に教科書として使った珍しい本、永瀬義郎の名著「版画を作る人へ2 」と永瀬の自伝「放浪貴族3 」を出しておく。
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永瀬(1891〜1978)は土浦の出で、彫刻、日本画、版画と動いた人だ。革命家魯迅を援助した良識人・内山完造の「花甲録4 」(岩波新書/1960年刊)も復刻になった。読むべし。
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9月末には美術館講座の仲間と魯迅の故郷「紹興(しょうこう)」にいくつもり。