`13.10寄稿
過ぐる9月28日、第34回「ふくろう文庫ワンコイン美術講座」のテーマは「文化学院の創始者・西村伊作」だった。西村は人名事典の類では「教育者」と出ている。
学校を創設したくらいだから、それは全く正しい定義だが、西村なる人物はその一言で片付く程に単純なものではない。まあ、一言にくくるならば、「自由人」としか言いようがない人だった。そして、この自由人を育てたのには色々の要素があるだろうが、大石誠之助なる叔父の存在が先ず大きい。しかし、この大石は「死刑囚」なので、何故に死刑になったか?を説明せねばならぬ。それで私はこの講座の半分ほどを、それに使った。大石を死に追いやったのは、「大逆事件(だいぎゃくじけん)」だ。では「大逆事件」とは?。
1910年、明治天皇の暗殺を計画したとして全国数百万人の社会主義者、無政府主義者を検挙し、11年に幸徳秋水ら12人を死刑、12人んを無期懲役、2人を有期刑にした弾圧事件だ。
因みに「だいぎゃく」とは、人倫にそむく悪逆の行いで、君主や父を殺す類いの事だ。
「大逆事件」は現在、明治政府の完全なデッチ上げ事件と判明しているが、そのきっかけは,長野の機械工・宮下太吉が爆弾を作って,1909年(明治42)11月、爆発するかどうか試してみたことから始まる。
石川啄木は、この宮下を「墓碑銘1 」なる詩でうたった。「われは常にかれを尊敬せりき/しかして今なお尊敬すー」と始まる詩は、中程で「かれは労働者−1個の機械工なりき。/かれは常に熱心に、かつ快活に働き/暇あれば同志を語り、またよく読書したり。/かれは煙草も酒も用いざりき」と続き、「かれの遺骸は、一個の唯物論者として/かの栗の木の下に葬られたり/われら同志の選びたる墓碑銘は左の如し。/「われにはいつにても起つことを得る準備あり」。
その準備というのが爆弾試作だったわけだが、太吉の狙いは何だったか。維新の後、明治天皇が「現人神(あらひとがみ)」として、まつられたことに反対した太吉は、たてまえとしての四民平等の現実のためには、神を人の位置に戻さねばならぬ、つまり神なる天皇が爆弾で血が流れるとなれば、即ち神にあらず人間な訳で、これをもってして、人々を天皇制のしばりから解き放とうとした訳だ。太吉の相談相手は、というより当局が天皇暗殺の陰謀者としたのは、新村忠雄と,菅野スガと、もう一人古河力作の合わせて4人だった。新村は秋水の弟子,菅野は秋水の愛人、そして幸徳秋水は「平民社」に拠って,日露戦争への反対論、軍備撤廃論、自由平等論、男女平等論を訴え続ける,政府が言うところの「主義者」だ。こうした人脈によって政府はまず宮下太吉を逮捕し,次いで「主義者」とみなすものを一網打尽にした。
首謀格にされた幸徳秋水は1871年,四国は中村の生まれで、薬屋、酒屋を営む家の息子で、本名は伝次郎。「秋水」なる号は「東洋のルソー」と呼ばれた自由民権論者・中江兆民が付けてくれたもの。
太吉の一味とされた古河力作は、福井は小浜の没落した旧家の跡取り息子であったが、その生涯を調べた同郷人の水上勉は,造花園の手伝い、つまり園芸家の力作は,上流階級に出入りする中に,今流に言うと,上下の格差、不平等に目覚めたのではないかとする。
「古河力作の生涯2 」
ついでに言うと、2011年11月初旬、菅野スガが当時の朝日新聞記者の杉村楚人冠に宛てた「針文字」の手紙が我孫子市の白樺文学館で公開された。「針文字」は,白い半紙に針で穴がが開けられ,光にすかすと字が読めるもの。
文面は「爆弾事件ニテ私他(つまり宮下、新村、力作)近日死刑の宣告ヲ受クベシ〜幸徳ノ為メニ弁ゴ士ノ御世話ヲ切ニ願フ、六月九日、彼ハ何モ知ラヌノデス」だった。因みに杉村は唱歌「牧場の朝」の作者だった。
さて、一方の伊作の叔父たる大石誠之助。1867年生まれの誠之助は,伊作の父与平の実弟出新宮出身、アメリカ帰りの医者。貧乏人は只で診て「大石ドクトル(Docter=毒取る)」と呼ばれた人徳者。
貧しい患者をいくら治療しても社会の仕組みはが変わらぬと無意味とする思想が秋水らと共通した訳だ。その秋水が仲間の堺利彦らがデモで逮捕されたと聞いて上京する途中,新宮に立ち寄り、誠之助は熊野川に舟を出して、秋水を歓迎する一酌の宴をはった。これを当局は「大逆の陰謀のための集まり」と見做した。
このあたり、戦中、雑誌「改造」をつぶした「横浜事件」(これについては2005年5月号第55回参照)とよく似た作りだ。この時は政治学者・細川嘉六を囲んで雑誌記者らが、富山県の泊に一泊旅行したのを、当局は「共産党再建謀議」として宴に並んだ人々を捕らえたのだった。
大石については、弁護士の森長長三郎による「禄亭大石誠之助3 」があるのだが、今本棚を探しても出て来ぬので,書名だけ出しておく。その代わりに秋水の弟子で無期懲役になり,89歳で死ぬまで無実を主張した,大逆事件の生き残りの坂本清馬の自伝を出しておく。
「坂本清馬自伝大逆事件を生きる4 」
さて、「大逆事件」は起きた。政府のデッチ上げ事件にもかかわらず,新聞界はこれに抗する事もなく,逆に「大不忠」「天地も入れざる大罪人」と書き立て、知識人も一人として,これを非難するものがいなかった。...否一人いた。それは「みみずのたわこと」「不如帰」の著者にして,トルストイの平和思想に共鳴する文学者・徳富盧花だった。彼は幸徳秋水らが処刑された一週間後の2月1日に,第一高等学校で「この事件は権力の謀殺だ」と明言した。題して「謀叛論」。盧花は、吉田松陰は幕府の謀叛人として処刑されたが、今では誰もムホン人とは思わぬと前置きして、「謀叛を恐れてはならぬ〜新しいものは常に謀叛である」と締めくくった。
その論が成るについての次第を語ったのは一連の「文学散歩」で鳴る野田宇太郎で,野田は盧花の秘稿、天皇に幸徳の無罪を訴える「天皇陛下に願い奉る5 」の発見者だった。「謀叛論」は岩波文庫にある。大逆事件のデッチ上げの秘密を追った神崎清の「革命伝説 」4部作も復刊となった.読むべし。