平安時代の昔から,我が身のケガを「人形」に託して祓う行事がある。つまり厄払いの身代わりになってもらうものだが、その表れの一つが「流しびな」で,広辞苑には「3月3日の節句の夕方、川や海に流すひな人形。ひなはもともと〔ひとがた〕として神送りするものであった」とある。して又「神送り」とは「わざわいの神を追い払うこと」だ。
第077回 キリスト教美術と最後の晩餐
昨年5月、義母を伴っての上京中に、上野の国立西洋美術館で、「聖なるかたち-後期ゴシックの木彫と板絵-」展を観ました。ドイツのアーヘン市立ズエルモント=ルートヴィヒ美術館所蔵のものです。
14世紀から16世紀初頭にかけて、ドイツとネーデルランドで生み出されたカトリック美術を蒐めたものですから、言うまでもなく、木彫55点、板絵21点、石彫1点、の全てが、これ、キリストや聖母、聖人達の像ばかりです。
義母は禅宗で、キリスト教については何の知識も持ちませんし、足が弱っているので、興味なかろう、疲れてつらかろうと思い、悪いけれど入り口で待ってもらおうと思いましたら、意外や、観たいと言います。
そこで、車椅子にのせて一巡となりました。ところが義母にとっては全てが奇妙で不思議なものに見えたらしく、しきりに説明を求めるので、わかるかぎりの説明をしたところ、これ又、意外なことに、大いに興味を示すのでした。 続きを読む 第077回 キリスト教美術と最後の晩餐
第281回 ロマの女王エスマとキョウサイ
忘れぬうちに一つ先に書いておく。前々回(no279,図書館報「ひまわり」では2008年12月号のno95)で、私は「話は変わって麻生首相、連日暴言を吐く,字は読めぬは、、、」と書き出して、「~も一つ、野中某に対して、”部落出身の人間が大臣になるってのはどうかな”といった趣旨の暴言にたいしては、次の本を読めと言いたい」として、平凡社新書の「対論・部落問題1 」(組坂繁之+高山文彦著¥720)を挙げておいた。 続きを読む 第281回 ロマの女王エスマとキョウサイ
- 組坂繁之+高山文彦.対論・部落問題 .平凡社新書(2008) [↩]
第076回 ネオナチ スキンヘッドとワーグナー
「マルコ・ポーロ」事件なるものが続いて2つ起きました。
一つは、東洋史学者、岩村忍の名著とされてきた、岩波新書版の「マルコ・ポーロ」が「この書は筆者の自著とされているが、内容形式のみならず表現の多くはハートからの剽窃(ひょうせつ=他人の文章などを盗み、自分のものとして使うこと)」と指摘されたことです。
指摘したのは、ヘンリー・ハートの「ヴェネツイアの冒険家=マルコ・ポーロ」(新評論)の訳者、幸田礼雅(のりまさ)です。
もう一つは、本年2月、文芸春秋社発行の月刊誌「マルコ・ポーロ」2月号に「戦後世界史最大のタブー。ナチ『ガス室』はなかった」と題する記事が掲載されたことから発した事件です。 続きを読む 第076回 ネオナチ スキンヘッドとワーグナー
第075回 「大漢和辞典」を完成した諸橋轍次博士の生涯
三人連れの男子学生が来て「ことわざ」の辞典はないかと聞きます。一番大部な小学館のも含めて、種類示すと、「イヤ、これらはもうみたが、探す言葉が出ていない、他にないか」と言います。
余程、むつかしいか、珍しい言葉なのだな、と思いつつ、「一体、どんな言葉か」と聞くと、「火のないところに煙は立たぬ、だ」と答えたのには仰天しました。
内心「アホジャナカロカ」と思いましたが、これも質問の中と割り切って、「それなら、辞典に出ていない筈はないよ」と言ってから、ハッと気付いて、試みに目の前の辞典を引かせてみると、案の如く(=推量の通りに)、「火」の箇所を素通りして、「火のない~」を探し始めました。 続きを読む 第075回 「大漢和辞典」を完成した諸橋轍次博士の生涯