山下敏明さんのあんな本、こんな本

第203回 漱石と鈴木三重吉と芥川竜之介

`02.6月21日寄稿

泥棒が家やら部屋やらに侵入しようとする時には、雨戸であれ、障子戸であれ、最初に敷居に小便をたらすと言う。滑りをよくするためなそうだが、盗人(ぬすびと)から直接聞いた訳ではないから、真疑の程はわからぬ。又よく聞く話に、泥棒は、これから忍び込もうとする、或いは忍び込んだあとには糞をたれると言う.気を静めるためと言うが、これも嘘か真か、責任は持てぬ。のっけから、不確かで、かつババッチイ話で、恐縮だが、次の話は、確実...即ち、明治39年9月15日、夏目漱石の所に泥棒が入り、あまつさえ、上記の行為つまり糞をたれていった。

因みに、「糞を垂れる」との言い方は「不義理をすること」を指し「恩を仇でかえす」時に使う。この泥棒は、正しく、漱石宅で、この言いまわしを実行した訳だ。

「フラチな奴よ」のう。ところが、この泥棒、フラチな上にフラチな奴で、この時落紙(おとしがみ...と言ってもこのごろは通じぬらしい...つまりは、便所で使う紙)に使ったのは漱石の所に来た手紙だった。

江戸っ子の漱石は、この事件に腹を立てずに、むしろおかしがった様子で、その証拠に、後に朝日新聞に発表した作品「門』でこの事件を使った。

〜家主の坂井宅に泥棒が入る、おまけに此奴、逃げる時に、主人公宗助の家の庭先で、糞をたれる。しかもさる人から来た手紙(巻き紙の)を使って、後始末をしていく。そのあたりは〜

“〜文庫の中から洩れた手紙や書き付け類が、其処いらに遠慮なく散らばっている中に、比較的長い一通がわざわざ二尺許(ばかり)広げられて、其の先が紙屑の如く丸めてあった.宗助は近付いて、この揉苦茶(もみくちゃ)になった紙の下を覗いて覚えず苦笑した.下には大便が垂れてあった。”〜

さて、この時、泥棒が、平たく言えば、己が心を静めて後己が尻をふくために使った、巻き紙の手紙は、実は、鈴木三重吉が友人の中川芳太郎にあてたもので、実に長さ3間...と言うことは、(180㎝×3=計算してみて下さい)程の長い長いものだった。(※この手紙、中川宛のものだが、書いてあることが、殆ど漱石に対するあこがれの様なものだったので、中川が漱石にわたしたもの)

鈴木三重吉を知らぬ人ははおらぬだろう...とは思わぬので、一応説明すると、広島生まれ、東大英文科出身の作家、漱石の弟子で出世作は「千鳥」後、雑誌「赤い鳥』を出して、童話作家として、児童文学につくした。

「赤い鳥をつくった鈴木三重吉1

友人の中川芳太郎(よしたろう1882-1939)の方は知らぬ人はおらぬだろうとはいかんな...東大で漱石に教えを受け、この人の卒業論文に漱石は満点をつける程よく出来た。

我が家の英文学の棚にある「英文学風物詩」と「欧羅巴(ヨーロッパ)文学を併せ観たる英文学史』は、今もなお価値を失わぬ名著だ。

因みに、今我々が読む、漱石の「文学論」はこの中川が講義ノートをもとにして作った原稿を漱石が校閲して成ったものだよ。「鈴木三重吉への招待2

話は、漱石の家に泥棒が入り、そいつが、三重吉から芳太郎にあてた長い巻物の手紙で...と言う所まで進んだが、何故、この話になったかと言えば、今日21日午後、読み聞かせの会「たんぽぽ文庫」の安藤薫さんが「北電」で「赤い鳥から青い鳥」と題して講演し、仲間の木戸さんと、伊藤さんと、それに安藤さんが、語りの実演をしたからで...。

「北電」には自社のお客様62社を会員とした、「電気有効活用室蘭地区協議会」なる団体があって、年に一度総会を開き、決算報告などのあとに講演会を開く。今年の講師が安藤さんだった訳。(そして安藤さんはその講演料を「ふくろう文庫」に寄付してくれたイヤア感謝感謝!!)

安藤さんの話は自分たちの活動について触れながら、鈴木三重吉を中心とする児童文学の流れを語る。殊に、三重吉の主宰した雑誌「赤い鳥」についてであったらしい.本人は終了後自己評価30点とエラク辛かったが、担当課長が私に報告してくれた所によると、”イヤイヤどうして、限りなく上(=100点)に近い出来でした.”と言う事だったから、安藤さん心安んぜよ!!聞く人達の目が輝いていた由!!

さて、この「赤い鳥」は実のところ「青い鳥」と名付けられるところだった。まさか!!なんて言ってもダメ

ここに江口渙(かん1887-1975)なる作家がいる.民衆芸術派のリーダーとして大正文壇で活躍した人で、まあプロレタリア系の人だ、この人によると、“〜たしか、大正7年1月の九日会の帰りだった。私と芥川竜之介と鈴木三重吉の3人で一緒に漱石山房の門をでて、〜三重吉がふっと思い出したようにいった。「こんど、いよいよ子供のための文芸雑誌を出すことになったんじゃ、いままでの子供の雑誌、あんまりひどいんでなあ、それで芥川君、創刊号に是非君に書いてもらいたいんじゃ、たのむ。〜「わが文学半生記3

―この結果、芥川は創刊号に名作「蜘蛛の糸』を書く訳だがーこの時江口は三重吉に言う

“~「雑誌の題はどう決まりました?」と聞いた「青い鳥」と言う題にしたよ」「青い鳥じゃメーテルリンクの青い鳥とかち合って変じゃないですか」「でもいろいろ考えてみたんじゃが何としても、いい題がないので、“青い鳥”に落ち着いたんじゃ」

ところが雑誌が出てみると題は「赤い鳥」になっていた。

江口の父㐮は東大で、鴎外と同期の医者で、後に軍医となったが、この父親についての面白い話が左のものだ「老書生風流譚(1980年刊)」なる本に出てくる話。てなことで、「三重吉...赤い鳥」と来ると話はつきないがこの辺で。



  1. 小島政二郎.赤い鳥をつくった鈴木三重吉.ゆまに書房(1998) []
  2. 赤い鳥の会篇.鈴木三重吉への招待.教育出版センタ―(1984) []
  3. 江口渙.わが文学半生記.講談社文庫(1993) []

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