第254回 吉野作造、最上徳内、安藤広重、丸山薫

`06.11.7寄稿

室工大で建築を学んだ水野君は、若干26歳でガンに倒れた.彼を偲んで仲間が集り墓参りをしてから、3.4泊の旅をすることに決めて、今年は早や、27回忌になった。毎年々々、よく続いたものだ.時には墓のある仙台を遠く離れて、沖縄まで、出かけ,その地で水野君を語ったりもして...その旅はいつも観光コースからそれて,美術館めぐり、を中心とするものだった。美術を一番愛した水野君が生きていたら、「ふくろう文庫を」どれ程喜んでくれたろうかと、いつも思うが、それも詮無いことだ。で,今年は久しぶりに仙台周辺に的をしぼり...

と第一弾は,合併して大崎市となった旧古川の「吉野作造記念館]を訪れた.作造(1878.明治11〜1933昭和8)は政治学者で、大正の世に「デモクラシー」を「民主義」と訳した人だ。ありゃ?「民主義」じゃないの?ごもっとも!!

明治憲法の下では,天皇が一番エライ訳だから、政治の人公はには国民はなり得なかった。それをあえて主張すればこれは、憲法違反になる訳だから作造は功名にこれをさけて、政治の目的は国民全体の至福でととらえ、故に、国民が政治の根本にあるべきだと主張した.民主義のいわれだ。

作造が町で初めて、県立の中学校に合格して仙台に出かけるとなった時、町の人達はお金を出し合って,作造に「玄海]を送ったと言う.泣かせる話だなあ。「玄海]は文部省の命で明治8年に起稿,19年に成稿と言う大国語辞書で,著者は大槻文彦だと言うことは常識だが、作造が入学した中学校の校長が,この大槻文彦だったった。たいしたもんだ。

次に行ったのは村山市の「最上徳内(もがみとくない)記念館」徳内(宝暦5.1755-天保7.1836)は、エゾカラフト地方を調査探検した男で,かの,シーボルトの大著「ニッポン」に“徳内提供による”と、説明のついた地図とアイヌ語の辞典が引用されていることは,知る人ぞ知る...ところ。

徳内館には,二風谷の故萱野茂の作製になるアイヌの家(チセ)も作られていて、これが茅葺きでなくトタン様のものになっていて,聞いたら、隣にある,警察と消防署が「消防法」に反するとて、茅葺きを許可しなかった由.成程!!庭内には北海道の形をした中島が作られていて面白かった。ここでの一番の幸運は、徳内の資料の他に,蘭学者「伊藤昇廸(しょうてき)」の資料が特別展となっていたことで、これについては,室蘭民報紙上の「本の話」の第459回(12月10日掲載)でふれることにする.乞、御一覧!!

次に行ったのは,東根の造り酒屋の「東の杜資料館」にある「国分一太郎資料室」。国分は山形師範学校出で,小学校教師として、「生活綴り方運動」に努力した人、これが治安維持法違反として,検挙された人いわばあの有名な「やまびこ学校」の無着成恭の先駆者たる人で、戦後は教育評論家として鳴らした人。蔵の中にひっそりと、国分の資料が並んでいたが、隣の部屋では住人達の文化祭が盛大に開かれていた。

次に行ったのは天童市の「広重美術館」広重は無論浮世絵の広重。美術館の前の文久元年(1861)創業と言う「水車そば」で「そば前酒]つまり,食前酒のソバ焼酎を一酌し、二人前はありそうなソバで、腹を満たしてから、広重を堪能した。何でここに,広重が...と言うと、天童藩が商人達から借金をした際に、その抵当に広重の肉筆画を与え...これが,後に「天童広重」と言われる程の量となり...と言う訳なのだ。

ふくろう文庫特別展ー浮世絵特集ー」やったあとの身としては殊更に印象の深い体験だった。因みに「みみずく図]の複製が2万円弱であって,欲しいと思って後ろを振り向いたが,財布を持っている,我妻は既に館外に出てて姿は見えず、すべがなかった。残念、無念!!

次に行ったのは西川町の「丸山薫記念館」`90年4月に出来たもの.1974年に75歳(と思うが)で死んだ丸山薫は、いわゆる「四季派」の詩人で、船乗りにあこがれ,今の東京商船大学に入ったものの病気でやめた人だが、最初は海への思いを詠ったことから「海洋詩人」と呼ばれた。

ところで、山形県西川町なる所は、月山のふもとの村で豪雪で鳴る所だ。海の詩人が、何でこんな(と言っては失礼だが)山深い所に縁があるのかと言えば、それは戦争のなせる業で,丸山は「日本中焼け出されても、残る村がある」と仲間の詩人、日塔聡に聞いてこの村に疎開した。因みに日塔は、西川町の近くの河北町の出身だった.丸山はこうして,1945年春から,3年半の前半この村の国民学校で代用教員をつとめた。

記念館の係の男性が「私も習った」と言うので、「どんな先生だったの?」と聞くと、何も教えずに窓の外を眺めてタバコを吸っているだけで,生徒には自習させていたと言う。その辺りを丸谷の妻三四子は著書「マネキンガールー詩人の妻の昭和史ー1 」(時事通信社`84刊)でこう書く。

余り勉強しない子に丸山が勉強しろと言うと「イヤだオラは勉強嫌いだ」と答える,丸山はそれに対して、「そうか,しょうがないな]と答えると脇にいた教頭が、「そんな甘いことでは駄目です」とていきなり,その子の首根っこをつかまえて、水桶にぐいっと突っ込んだので,丸山はあわてて「今どき拷問みたいなことはやめてほしい、僕があやまるから、かんべんしてやって下さい」と言った由。

係の男性は,森の奥を指して「あの辺りに丸山先生の住んでいた家があります」と言ったが、これも三四子の回想によると,古沢久兵衛門所有の蚕室を改装した2回建てで、きれい部屋だったが、標高1400尺そこは風が激しくて,建物ごと吹き飛ばされそうな感じで、丸山曰く、「どうだ、風鳴荘と名付けようか」と。

話は変わるが「丸山記念館」を訪ねると知った時に私には一つの記憶がよみがえった。それは,私が、20歳か21歳つまりは今から50年前のこと。山形は寒河江市の左沢村から来ていた渡辺光一さんと言う中央大学学生と私は下宿が一緒だった.一寸あごが張っていたが,色白で、端正な顔立ちの渡辺さんはフランス文学を専攻してたと記憶するが、或時レポートの代作を頼まれて、私も面倒だから,エドモンド・ゴスの「イプセン論」を有島武郎が懐古文で訳した奴を現代語訳にして渡したら、いい成績がとれたと言っていた事がある。渡辺さんの山形の家は雪又雪の山奥で、訪ねた時俳句をやっているらしき母親が、盛んに「丸山薫先生が〜」と言う.ポッチャリと色白で、小首をかしげて,少女のような言葉使いをする人で、この母親が上京した時,これ又,渡辺さんに頼まれて当の息子の代わりに、私が箱根旅行に同行したことがある。小田原から来てた 封家の息子で日大生と中央大との日下部家兄弟に招待されて、タクシーで箱根の山中をほとんど一日がかりで廻ったのだ。この「丸山先生が...」を連発していた母親が記念館に関係していないかと思い出して私は係員に聞いてみたが分からぬと言う、あきらめて、それでも、丹念に貼られている資料を見て行ったら、1972年の丸山歌碑建立記念の写真の中に,相変わらず小首をかしげる姿で立っていた数人隣に夏科源茂も写っていた「この人だ」と言うと「あー渡辺浜路さんですか、未だ存命です」と言う。息子の光一さんのことは知らなかった。あとで知ったが、女達を集めた句会の名は「さわらび会」だった。ところで、水野君はあと6年で33回忌だそうな.電子科を出た野沢君曰く「その時は盛大にやる事にして来年もまた会いましょう」と又、「西方設計事務所」の西方君はあと3年で創業25年になると言う.記念に私を団長にして,海外旅行したいと言う。「絵巻で有名なチェスタービーティ美術館、アイルランドはどうだ」と私は答えたが,それまで、生命永らえるかどうか??



  1. 丸山三四子.マネキンガールー詩人の妻の昭和史.事通信社(1984) []

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