`07.1月寄稿
10月末の丸井での「ふくろう文庫特別展―浮世絵特集ー」を用意している或る日、道新の報道部長・日浅尚子さんが取材に来て呉れて2時間余、色々な話をした。その時の話は10月18日(水)の道新・夕刊の全道版の「今日の話題」なるコラムにまとめられて、この一文を読んだとて、小樽、札幌、江別あたりからもお客さんが来てくれたから、まことにありがたかった。
ありがたかった、と言えば、もう一つあって、それは...「ふくろう文庫展」の間、コーヒーコーナーを設けて、無料でのんでもらおうと考え、しかもそれを出す係の人に、ノスタルジ―で思いついたのだが、銀座のカフェ―昭和初期ーでのウエイトレス風の扮装はどんなもんじゃろう....と、エプロンを探したのだが、これが意外とむずかしく、と言うのは、当節エプロンは葬式の時が出番だとかで....困ったはてに、日浅さんにこぼすと、「あっ、それなら私が札幌で探してあげる」となって...これが翌日にはインターネットでめっけた。3着プレゼントするわよ」と言う結果になったのだった。
さて、日浅さんは目下、高校時代まで続けていたピアノを、又始めたと言うことで、丁度その時、ピアニスとの酒井由美子さんが居合わせたので、2人の話がピアノの話題に移って、弾みに弾んだ。
私は傍らで黙って聞いていたが、私の興味をそそる話の連続の中で、殊に興味を魅いたのは、「田中希代子」の話だった。「東洋の奇跡」と呼ばれた天才ピアニスト・田中希代子の名を、私は小学校6年頃には知っていた。と言うのは、旧制の第二高等学校(現東北大学)に進んだ兄のアルバムに、彼女の写真が貼ってあったからだ。
何故バンカラデ鳴る旧制高校生のアルバムに、プロマイドではないけれど、それにも等しいプロの写真家によるスナップ写真(会場での)が貼ってあったかと言うと、それは学校祭(文化祭)に彼女がきたからで...その写真は、一寸上から写した様な角度のもので、彼女がちらっと上目遣いに、こちらを見ていると言う風な物だった。前髪を揃えて切って、あとは両脇にファーッとたらした髪型で、一番覚えているのは、その大きな「マナコ」だった。後年私は、[巴里のアメリカ人]でジーン・ケリーを相手に踊りまくるレスリー・キャロンを見た時に、何となく顔の作りが田中希代子的だなと思ったことだった。ついでに言うと、レスリーをアメリカ人だと思っている人が多いようだが、この人はパリうまれ、つまり生粋のパリジェンヌである。そんなことはまあいいが...。
日浅さんの話に、室蘭出身の田部京子の話が出て、何でも日浅さんがついている「S先生]が、田部を連れて東京迄出かけたと言う話だった。萩谷由喜子の「田中希代子1 」には、当の田部京子が登場して、こう語る。[〜田中希代子先生と出会ったのは、私が小学校4年の時です。その頃私は室蘭にいて、4歳半からずっとピアノをならっていました。〜その先生が(S先生と思われる=山下)が、ある日、連れて行きたい先生がいると言うことで、田中希代子先生を紹介して下さったんです。〜室蘭の先生と一緒に飛行機で通う、年に数回のレスンが始まりました。〜」
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日浅さんと、酒井さんの知的刺激に満ちた話に、私は大満足だった。
ところで、田中希代子がもっとも感銘を受けた映画は「赤い靴」だそうな。これを見たあと希代子は4年ばかり夫婦生活を送った作曲家宍戸に「胸に刺さるわ」と感想を述べたと言う。
私は女友達の音楽好きの咲美さんにこの話を教えて、「この1948年のバレエ映画は中学3年頃に見たが、原作はT.Eホフマンなんだよ。主演のバレリーナ、モイラ・シアラーがすごくよかった」と伝えて、その晩我が家でこのビデオを久し振りに観てみた。するとアリャ、原作はアンデルセンとあるではなか。
「赤い靴」は新人バレリーナが独裁的権限をふるうプロデューサーに見出され、プリマドンナとして成功するも、この曲を作った、これ又新進作曲家と恋に落ち、芸に生きるか、恋に生きるかのはざまで...どうなるか...と言う話で、田中希代子も同じ問題で悩んだ末の「胸に刺さるわ」であったろう。
はて、何でアンデルセンとホフマンをとっ違えたんだろう、と、つくづく考えていて、ハタと気付いた。モイラ・シアラー出たもう一本のバレエ映画を思い出したのだ。
これが、ホフマンの原作を、作曲家オッフェンッバックがオペラにした「ホフマン物語]1951年作。ヒャーよかった。早く咲美さんにこのこと伝えてあやまらなくちゃ。
さて、田中希代子は、1968(昭和43)36歳にして、膠原病の診断をくだされた。以後、演奏活動が不能になり、64歳で死ぬまで自宅に引きこもって、半身不随の身を養わねばならなかった。小学生の田部京子が入門したのは、この直前のことらしい。
難病と闘った人はゴマンといるとしても...と思いつつ、私は田中希代子に似た境遇の人を思い出した。1945年オックスフォードに生まれ、1987年に多発生硬化症のために死んだ、天才チェリスト、ジャクリーヌ・デュ・プレだ。わずか42歳で死んだデュ・プレについては、私は既に「本の話」第296回で、彼女の伝記「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ2 」とそれを基に作られた映画で、同じタイトルの「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ」を使って語ったことがある。
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どう語ったかと言うと、スペインの独裁者フランコに抵抗したチェロの巨人パブロ・カザルスと、スターリン体制に歯向かったロシアのムスチスラフ・ロストロボーヴイッチの2人の業績を語ったあと、この2人について語ったデュ・プレの言葉を紹介したのだ。
デュ・プレは大きく身体をゆする演奏をする人だが、これを避難する人に対してカザルスは「彼女の演奏は心から生まれ、体の動きも演奏する一部であることが君には分からぬか」とかばったのに、当のデュ・プレは「カザルスはすごく小さい人」と言い、逆に彼女が畏怖したロストロボーヴィッチに対しては「すごくドラマチックな人なの、シネラマみたいな人」と言った云々。
ここに挙げるのは、このデュ・プレの20代の演奏振りを示すDVDだ。後に大指揮者となる、ピアニストのダニエル・バレンボイムとの交流もみえて面白い。
スターリンに反抗したと言えば、今年生誕百年を迎えたショスタコ―ヴィチ(1906〜1975)3 がいる。つい最近もサンクトペテルブルグ・フィルが来日して、交響曲第13番をやったが、ショスタコ―ヴィチについては又にしよう。
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