何年前の何月だったか、ははっきりした月日を覚えていないのだけれど、転んで「アゴ」の骨を折ったことがある。どこでころんだか?と言うと、登別温泉のとある宿の風呂場で、タイルにすべって..と言う訳。「アゴ」と言っても、これがいわゆる「アゴ」でなくて、頭蓋(とうがい)と、顔の部分をつなぐ、耳の所の骨が折れてしまって、ここが折れると言うのは、1500人に1人だか、15,000人に1人だかと医者が言っとった。
治すには如何なる方法を使うのかと、痛いながら、興味津々でいると、これが野蛮なもので、医者は3人。歯医者の椅子のもうちょい低い様なのに座らされたと思うと、いきなり、後に引き倒され、1人が、私の頭を股間にはさんで、頭が動かぬようにし、2人が、両側に座って,私の歯茎を針金で上下縫いにかかった。丁度、竹垣を編んで行くように、1人が上の歯茎に針金を刺し、下の歯茎から引っぱり出すと言う具合で、これが麻酔なし。(しちてんばっとう)七転八倒したいけれども、頭は医者の股間、両足には肥り肉の看護婦が座り、両脇には針金を交互に刺してくるのが2人だから、ひたすら耐えるだけ。
竹垣作成ならぬ上下の歯がガッチリと縫い上げられた所で、アルミ製(?)のチン.キャップなるものを『アゴ』に当てられる。チンはchinで、つまり「下アゴ」、早い話が受け皿めいたものを下アゴに当て、水泳帽みたいなものを、頭にかぶらされ、その帽子(?)から中指一本位の太さのゴム管を耳の所に一本宛、後頭部にも1本たらして、チンキャップを引っぱり上げる。これで歯は上下縫い合わされているわ、「下アゴ」は頭に向って引っぱられているわ、で1㎜と言えども「下アゴ」を上下のみならず左右にすら動かせない。このように固定して、折れた骨が自然にくっつくのを待った訳だ。
さて、そう言う苦行に耐えつつ、食事はと言えば、朝、昼、晩と果物ジュースが7本宛3×7=21本つく。私は2日程で「明日はお発ちか?下関(しそのせき)状態」つまり下痢ピーになり、これではたまらぬ、と訴え出ると、今度はプリンがストロー付きで来た。上下動かぬ「アゴ」のどこでプリンを食べるの?と腹話術で聞くと、奥歯の又奥のスキ間から吸えと言う。タハツ-!!「プリン刻んで、ストローで吸えるかどうかやってみろ、このS大学病院奴!!」と言うのは昔の話で、話の種でむしろなつかしい。
ところで、その悪銭苦闘の最中に我妻さん(と言うことは、即ち家内のことだが)が見舞いに来て、私が寝ている間に持って来たものをベッドの脇の整理棚の上に置いて行った。目がさめて見ると、それは、小石の上に松葉を置いて、「こより」で結んだものだった。「なんだこりゃ」と翌日聞いてみると、「分からない?」「ウンわからない」,,,,で、今度は我妻さんが「ダメだ.コリャ」であっった。 「小石+松葉」とかけて.何と解く?心は「恋し.待つ早く治ってね」であったのだが、「何だこりゃ」ではアウトもアウトで、その時から、我妻さんは「あっちゃ向いて、ホイ」である。
さて、これに似ている詩がある、と言うと、冒涜(ぼうとく=神聖.尊厳なるものをけがすこと)も甚だしい、とおこられるだろうが、それはこんな詩です。「われ逝かば花な手向けそ浜千鳥呼びかう声を印にて落葉に深く埋めてよ十二万年明月の夜弔い来ん人を松の影」要らぬお節介とは思うけれど、若い人の為にやさしく言い直すと、「私が死んでも花はささげてくれるな。そのかわりに、浜の千鳥が呼び交す声を印として、落葉重なる土の中に深く埋めてくれくれ。十二万年後月が清く澄み渡る夜に、おくやみに来てくれるであろう女人を松の樹影で待っているのだから。」読むだに泣けてくる。①1
これは実は岡倉天心の辞世の詩だ。天心は英語でも同じ趣きのものを作っている。「戒告」と題するもので、
「私が死んだら鐘を打ち鳴らすな、のぼりをかかげるな、
人気ない岸辺の松葉の下に深く
私をしずかに埋めよ.かのひとの詩を我が胸にのせて.
私の挽歌を浜千鳥に歌わせよ。もしも我が記念碑を建てねばならぬと言うのであれば、
水仙を すこしばかりと香しい梅樹を植えよ」
天心は昨年創立百周年を迎えた「日本美術院」の創始者だ。その天心について語った孫の古志郎の
「祖父岡倉天心」が出た情理そのわった文章の並ぶいい本だ。
古志郎は国際政治学者で、名著「死の商人」を書いた人だ。敵も味方もなく兵器をうりさばいて暴利をむさぼる「死の商人」=「戦争の黒幕」の実体を描いて「死の商人」が死滅することを訴えた歴史的名著だ 私は1962年に出た岩波新書で読んだが、今度新日本新書の1冊として復刊された。是非に読んでみてちょうだい。
②2
「死の商人」と言えば戦争をあおる奴もいる訳で、先日も「西村防衛政務次官」なる馬鹿がでた。曰く『「大東亜共栄圏,八紘一宇を地球に広げる」や』。③3
「八紘一宇=はっこういちう」とは「日本書紀」巻3に出て来る言葉だが、「大東亜戦争」を「聖戦」とみなすキーワードとして使われた言葉だ。まあこのスローガンを担いで、戦争中さわぎまくったニセ歴史家たちが何をしたかについては阿部猛の本を読んで欲しい。とにかく「西村の様な人間はうしろであおるだけで自分は戦線には出ぬ。そんなに戦争したけりゃ、自分一人でやってこいと言いたい。`99.11.12(金)