第462回南陀楼綾繁と山下敏明のトークショー

2024.09.30

今回は去る9月21日、えみらん(室蘭市図書館)の多目的室で行われた、南陀楼綾繁氏と山下敏明氏のトークショーの記録を掲載させていただきます。

パート1(前半)

2024年9月21日本好き二人によるトークショー

司会 :一箱古本市の提唱でもあります南陀楼綾繁さんと、ふくろう文庫の創設者の山下敏明さんのお二人にたくさんの面白い話をいただけるものと、期待しております。タイムスケジュールは全体で2時間です。それではよろしくお願いいたします。

南陀楼:私は本に関することを取材したり、書いたりしてまして、本を10冊ぐらいかな、出しているんです。これは『町を歩いて本のなかへ』と言う本ですが、、室蘭市図書館にありますので後でもし良かったら借りてください。で、今日は山下さんとトークさせていただきます。よろしくお願いします。

山下:よろしく。

南陀楼:今度山下さんは9月で88歳になった。すごいですね。室蘭工業大学の図書館から司書の仕事を始められたっていうからもう50年近く?

山下:そうですね。うん、50年以上。

南陀楼:60年近くだそうです。うん、そんなに長く図書館で働くと思ってましたか?

山下:いや、最初は大阪の総合商社にいたんです。残業が多くてね。給料が良かったから本はどんどん買えるんだけどその本が読めない。それでもう嫌になって、この人生、俺これでいいのかと思って、司書資格をとって司書になった。

南陀楼:そうなんですね。子供の頃から本好きなんでしょうね。

山下: 本だけ。子供の頃、我が家のしつけが、お小遣いをくれて買い食いするということが許されなかった。ただね、室蘭一番の本屋があって、そこではツケで買ってよかった。それでそこに行って本買うんで、いっぱしの蔵書になっていた。

南陀楼:友達がね、山下さんところに本読みに来るみたいな。

山下:高校の時にね、英語の先生は小樽商大出の先生だったのですが、その人が家庭訪問に来てびっくりしてね。お前、こんなに本読んでたのかってぐらいに、本、本、本で、埋まってたんです既に。

南陀楼:その頃は何を読んでたんですか。文学とか、ノンフィクションとか?

山下:好きな作家ってのが何人か居てね、私の書斎には好きな作家が6人ぐらい並べてあるんです。例えば一番好きなの 中野重治。

そんなわけで、漫画を読んだことがない。読んだことがないじゃなくて、読む暇がなかった。アニメに近づけないうちに歳とっちゃった。

南陀楼:なるほど。私は島根県出雲市ってとこの生まれで、1967年生まれなんです。今57歳ですけど、やっぱり、子供の頃から本が好きで、田舎町だったんですけどね。近くに小さな図書館があって、そこにずっと通っていたり。本屋もある。山下さんのようにツケはなかったが、本買うことには何の文句も言われなかった。だから小学生の頃から結構いろんな本読んでました。そんな風に子供の頃から本好きで、そのまま大学出てから小さな出版社に入って本の編集やり始めて、その後自分でも文章書くようになって・・。という形で、30年ぐらいかな。

本の業界で仕事をしてきたんですけど、なんで山下さんと私が今、今日一緒にここにいるかって話なんですけれど、お配りしていると思いますけれど、こういうコピーがあります。2001年12月に出た「彷書月刊」という雑誌。古本屋さんが出してて、古本好きの人が読む雑誌があったんですね。そこに私は連載していて、それはインターネットの中で本好きの人がこうゆう発信をしているよ、というようなことを紹介する連載だった。これ読んでもらうと分かりますが、たまたま、検索していて、「蔵書票」でヒットしたのが山下さんが連載していた「あんな本・こんな本の」ある回だったんですよね。(あんな本~019回、あんな本~257回、あんな本~258回)それで、こんなすごい人がいるんだって、他の回も読んだらこんなすごい人が居るんだってわかって、で、このタイトルも、「ウェブで出会った北海道の生き字引」って書いてありますけど、実はこれ、山下さんのこの『本の話』の本が出るより前なんですよね。『本の話』は2004年に出てますが、それより前に山下さんとはやり取りしていて、お手紙もいただいたことがあります。2冊目が2012年『本の話』の続が出てこれもいただいたかなと思います。それで、少し接点はあったんですけど、それからもう20年以上特にやり取りはしていなかったんですね。

その後、私がたまたま今年の1月に、秋田市にある私設図書館「Honco」に行ったのです。はい、今日いらしてますが、自宅を私設図書館に作り変えちゃった天雲さん。で、たまたまそこに能代在住の西方さんという建築家のご夫婦がいらしてて、それで、山下さんの話が出たんですよ。でも私、正直これ、20年前に書いた文章なんで、私も完全に忘れてて、この中に西方さんの名前も出てるんですよね。全然忘れてました。なんと薄情な。それで、山下さんの話が出て、今、室蘭市図書館で、「ふくろう文庫」されてるので、そのうち見に来てくださいって言われて。あ、ぜひって言ってたんですけど、正直こんなに早く実現するとは思わなかったですよ。なので本当に嬉しいです。はい、そういいうご縁なんです。もう昨日ふくろう文庫については取材して、色々書庫とか拝見したんです。その話もしたいのですが、まず山下さんが室工大の図書館にいらしたときの話から伺いますけれど、30年以上司書やってたんですよね。そのとき工大はやっぱり、理系の大学の図書館なんで、どんな本を揃えるとかそんなに熱心に集めてなかったって話ですよね。それを、山下さんがいろんな本を集めるようになったっていう風に聞いたんですけど、その辺の話を。

山下:工大に行っていちばんびっくりしたのはね、こんなに粗末な図書館があるのかという感じ・・・。何がと言うとね、工学書は当然のことあるんだけれど、それ以外の本がないんですよね。小説もない。当時の大学図書館では館長っていうのは必ず教授がなることになっているんです。教授が館長になったからって、名館長とは言えないんですよね。本に関心のない館長いっぱいいますから。私が小説を入れようとしたらその中の館長の一人が、理工系の大学図書館になんで小説本入れるんだっていう。小説本って言うんですよ。馬鹿にしてるんです小説をね。人格形成や情緒も養わなければならないからという話で蔵書を揃えようとした。そうしたら中々お金を出してくれないんです。そのうち白鳥大橋が建つ頃に、3000冊焼いてくれって館長が持ってきたんです。廃棄してくれって、焼き捨ててくれって。図書館に関わる者としては廃棄なんてのはとんでもない話で・・・。

南陀楼:はいそうですね。

山下:廃棄をやめて、1年かけて調べたんです中身を。とんでもない本がいっぱい出てきて・・・。

南陀楼:非常に貴重な本がね、うん。

山下:なんでこんな本があるのかと思ってみたら、榎本武揚がオランダに留学したときに使った本なんかがどんどん出てきたんですよ。これは全部焼いてはダメ、焼き捨ててはダメと言って救ったんです。3000冊ね。その救った後に、全国の土木学会が室工大であって、私に何か講演しろっていうので、私が色々発見した本を喋ろうとした。図書館にいってリスト持ってこいと言ったら、私が救った3000冊が図書館の中で貴重書になっていて、土木工学科と図書館のある場所違いますから、学内と言えども門外貸し出しできないんです。

南陀楼:それを救った本人の講演なのにね。

山下:そう。この間までは焼けって言っていて、それを救った訳なのにその俺の講演にも持ってきちゃだめっていうのだから。ついでに言うと、室蘭市図書館でも焼却から何回も救ったんですよ。昔の旧館に3階建の中2階みたいになっている部分があったんですよ。そこに変な下駄箱があるってんで開けてみたら・・・。

そのとき館長は室蘭のゴミ処理場の長だった人が図書館に来てたんですよ。その人の責任ではないけど、その人は焼くのが専門だから、出てきたのを焼け捨てろってことになった。私が開けてみたら、蜘蛛の巣かかっててね。だいたい1000冊だと思っいたら実際は800冊あって、昨日南陀楼さんにもみてもらったんだけど、ほとんど大学にもない、本ばっかり出てきた。

南陀楼:例えば、江戸時代に出た『救荒便覧』。飢饉のときにね、どういう風に生き延びるかみたいな、そういうことを絵入りで書いた本とかね。あと『気海観覧』でしたっけ。

山下:『気海観覧』は日本で物理学というものがない時に、オランダの本を7冊使って物理学というものはどういうものかということを書いている。

南陀楼:そういうものが、要するに山下さんがこれは大事だって風に救わなければもう焼き捨てられていたという、廃棄されていたということですよね。ちなみに言うとその中に蔵書印押してるのがあって、それを見ると、「倶楽部図書室蔵書」「室蘭区教育会図書館」と書いています。それで、昨日ちょっと室蘭の図書館の歴史を調べてみたら大正時代に「室蘭倶楽部」が私設図書館として作ったのがあって、それから、「教育会」の図書館になって、それから、今の図書館の形になるんですけど、室蘭の図書館って歴史があるんですね。途中でね、火災になったりとか、その中で残ってたものが、そうやって簡単に捨てられてしまうようなところを救った訳で、今でもその書庫の中にはその当時のものがありますよね、うん。

山下:室工大も昔火事で図書館が全焼したことがあるんですよ。その後どういう風になったかと言うと、鷲山第三郎という人がいて、この人は日鋼に招かれて来ていたシェイクスピア学者なんです。学者も大変なものだけど、奥さんがね大正天皇の扶育女官。夫婦揃って偉いんですよ。シェイクスピア講座やって、そのお金を持って神田に行って直接本を買って来てそれが工大の焼けた後の最初の蔵書になったんです。だから、今、とにかく、焼く、焼かれるわ。黙っていると図書館の本は絶えず危機にさらされているんです。

南陀楼: 室蘭だけじゃなくて、全国で火災や空襲や水害などで、図書館の書蔵が被害に遭うってことがずっとあって、私今、図書館や、文学館の取材をしているんですけど、例えば、新潟県の長岡市や、宮城県の仙台で、空襲で図書館丸焼けになって、蔵書がもう本当に0になった。しかし翌日から、図書館員が色々地域を回って本の寄贈を呼びかけたり、寄付金を集めたりして、再開。本当に1ヶ月後には再開する話がすごくたくさんあって。それはやはり本がその時の、その地域の支えになっていて、本があってこその図書館だし、図書館のない街には文化がないということをすごく分かってやってきたわけですよね。だから室蘭でもそういう図書館の歴史があって、山下さんのような熱心な司書がいたから、いまでも受け継がれている本があるということでしょうね。

山下:あのね、いままた思い出したんだけど、鷲山第三郎という人が図書館の再開をしたんだけど、だんだん工学者が増えてきて、工学関係の館長が増えてくると、シェイクスピア学者が集めてきた本など、文学系が多すぎてくだらないってことになった。工大なのに、工学関係なので文学関係はいらないから、また捨てろってことになった。とんでもない話でしょ。それで、また頑張ってね、それを救った。工大ってところは、北大の土木部が先祖なんですよ。室蘭の旧制高校が大学になった時、最初の学長があの有名な日鋼所長だった金森先生。この人、珍しく大阪大学を出てるんだけど、ものすごく教養のある人。それでその鷲山先生と組んで鷲山先生を初代図書館長にして工大を立て直したんですよ。余計な話だけども、図書館に図書に関係のない奴が来るともう一貫の終わり。そうそれで、さっき「倶楽部図書室」って言ってたけど、当時は室蘭は軍港ですから、そこに日鋼ができて、新日鉄ができた。そこに来た連中が全部留学組の海軍将校だったんですよ。全部留学組が集まってなんか飲んでばかりではなく、少しは文化的なことをしようということで、「倶楽部図書室」が始まった。英国留学だから、英国のクラブを覚えてきている。

南陀楼:その工大図書館で山下さんがそうやって、理工系の本だけじゃなくって、いろんなものを集め、図書館が非常に豊かになった。だいぶ後になって、室工大は一般市民に公開するんですよね。その時ちゃんと専門的な理工系の本だけじゃなくて、非常に幅広い教養書も含めて本があるってことで、ちゃんと公開した意味があった。

山下:そうです。これもね、何年だったか忘れたけれど、海部という総理大臣がいた時、イギリスに留学していた夫婦が帰ってきて、一橋大学に本を貸してくれと言ったら、あなたはそこの大学生じゃないからって断りを食ったんです。そしたら、その夫婦が投書して、イギリスでは大学図書館は地域の人間が使えるのに日本では何で使えないんだと言ったら、海部が知りもしないで、日本でも全部開放してますと言った。そこで一斉に調査が入って、室蘭ではどうかと調査が来たけど、全然やってないんですよ。そこで、みんなから意見を集めたら、工大は大学だ、なんで勉強もしてない市民を入れるんだと大反対。全員反対。そこで1回立ち消えそうになったですよ。私は私立大学出だからその人間にすると、教育費2重に取られているようなものです。工大は国立だから、一般市民に、わかろうがわかるまいが、知恵の成果を市民にも一般公開すべきでないかって開放を始めた。

南陀楼:なるほどね、今はもう大学のある地域の住民に開放するってのはもう普通の流れになってますけど、かなり早かったと思います。

山下:うん早い、おそらく全道で一番ぐらいに早かったと思う。

南陀楼:なるほどね。工大の頃から山下さんは室蘭民報に「本の話」というのをずっと連載されていて・・・。

山下:これがね、室工大で、一般開放しようとしたら、そのまた馬鹿どもが、どうせ市民なんか来たって使える本がないんだからダメだって。そういう姿勢だから・・・。それで、その時の学長で荒川先生って人に、私が市民にも使える本がたくさんあることを講演するからと言って市民に工大に来てくださいって。それが1回2回・・・。好評で、何回もやったんですよそしたら、取材に来ていた室蘭民報の記者が、それを載せていいかとなって・・・。しかし、その時の民報の重役がこんな面白くないものはダメだって断ったんです。そしたら担当記者が、これは面白いから絶対公開すべきだと言って「本の話」をやり始めた。その人が録音してテープを起こすわけですよ。その人いい人だったけどあんまり知識がないというか・・・。例えばね、渡辺一夫が翻訳したラブレーの『ガルガンチュワ物語』の話をすると何を言っているかわからない。テープを起こすのに間違うわけですよ。間違って起こしたやつを持ってきては直すこと10回ぐらいやったんですよ。そのうちにね、いちいち直していられないから俺に書かせろ、それが早いから。それで始めたのが今900回だったか。

南陀楼:今917回そうなんですね。すごいですね。

山下:原稿料もらってないですよ。

南陀楼:そうですか。全くノーギャラで続けられた。これは本当にいろんな本を紹介しているわけですけど。今そこに持ってきている本も「本の話」で紹介したんですか?

山下:いやこれはまた別の話。

南陀楼:じゃあせっかくだからちょっと。

山下:モーパッサンに褒められた少女がいてね。私が小学校の時に安保先生っていう先生がいて、えらく小さい人で、145センチぐらいしかなくて、これがとにかく短気な女で見てると顔に青筋が立つのがわかるんです。青筋立ったらもうダメ。この人から往復ビンタくるんですよ。戦争中だから往復ビンタはいいんだけど、我々よりも小さいぐらいだから往復ビンタがビンタでなくアッパーカットでくる。この人、つくづく死んでくれないかと思ってた。うん、そしたらその人がありがたいことに一冊の雑誌をくれた。その雑誌の中にこの絵が入っていたんです。これは、私が切り抜いてねずっと持っていたのです。ずっと持ってたんですけど、戦争の疎開中、失っちゃったんです。ずっとこのことは気になってた。雑誌のこの絵を描いた人がこの少女だってわかった。これは野上豊一郎が訳した本なんです。

南陀楼:はい、野上弥生子の旦那。

山下;これを私が、大学時代に見つけて、これ読んだら、マリ・バシュキルツェフという人だってことがわかったもんで、なんとか言っているうちに、この本が手に入るわ。そしたら、「カイ」とい雑誌があって,取材に来た人にそう言う話を色々したら、この人がその絵を探し出した。これです、この絵はすごいということ。それでようやく行き着いたモーパッサンが褒めていてこんな天才少女はいないって。この人が日記を書いていて、私はまだ23歳、こんなに平凡でよかろうかなんて。もう非常に頑張っているわけです。しかし23歳で死んじゃった。私はこの絵は好きなの。

 

 

 

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