第042回 イタリア児童文学「クオレ」の評価

`93.10.19寄稿

今,我々がイタリア語だと思っている言葉は,実はフィレンツェ語だそうで、1861年にイタリア統一された時には,たった60万人が話す言葉にすぎなかったといいますから、これは驚きです。

 

では,他のイタリア人(?)は何語を話していたか、というと、それはナーポリ語であり,ヴェネツィア語であり、ミラーノ語であり,ローマ語であり、おまけにそれらは「方言」とは言うものの,お互いに意志疎通もできぬほどに違った言葉であったと言うのですから、始末におえません。

どの位通じなかったか、と言えば,外務大臣をつとめたヴィスコンティ・ヴェスタが、ナーポリで弟とミラーノ方言で話していたところ,イギリス人に間違えられた。と言うのですから,思いのほかと言うものです。

言葉一つでさえこの有様では,とてもの事,イタリアを近代国家として統一することはむずかしい、であろうことは、素人でもわかります。そこで国民皆兵の軍隊を作るとか,学校教育の普及を図るとか,統一を目的とした試みが各種なされます。

そうしたイタリアに,1886年に出現したのがずっと児童文学の傑作とされて来た,デ・アミーチスの「クオーレ」です。

原作者のデ・アミーチスは,第三次イタリア独立戦争の際に職業軍人だった人で、独立運動の目指すところ、つまりは「イタリア統一」の理念を子ども達に訴えようとして,子ども達の「クオーレ』=(心)を動かすエピソードを沢山盛り込んだ物語を創ります。

語られる一話一話が意味するものは、愛国心犠牲的精神奉仕友愛,と言ったもので,これらを通じて、デ・アミーチスは、「民族の魂」とも言うべき精神の核を形成しようとした、或いは形成する役目を担うことになりました。

感動のエピソードを連ねた児童文学が、その実は、何やら複雑な政治的たくらみ(と言っては言葉が過ぎますが)を帯びたさくひんであったということを軸にしながら、近代イタリア史を描いたのが、藤沢房俊の「『クオーレ』の時代−近代イタリアの子供と国家ー1 」です。

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「へーえ、『クオーレ』はそんな目的を持った作品だったのか」と小学校1年の時に、隣の組の吉田先生から借りた本に思いをはせながら、面白く読みました。

ただ、面白いけれど読みにくい所がないではありません。と言うのも「イタリア史 と言えば、日本では十年一日のごとく古代ローマ、ルネサンス、そしてファシズムという3大話に終始している」と著者、藤沢が嘆くように、読む側に近代イタリアについての知識が欠落している分だけ、読むのには苦労するわけですが、まあこれはがまんしなければなりません。

さて、今春社会人になった近所の娘に聞いてみました。

「しのぶちゃん、『クオレ』って読んだことある?

「あります。毎月よんでます。」「毎月??そんなに好き?」「そう言う訳でないけどー、毎月来るから」

「毎月来るって??ー??ー」で、それ、原作者はデ・アミーチス?」「原作者って??」

話しが行き違いましたがようやくわかりました。彼女が言っているのは、札幌に本拠を置く北海道の老舗デパート今井が発行している宣伝誌、「クレオ」のことでした。

しのぶちゃんが「クオレ』を知らなかったので、回りの女子大生4.5人に聞いてみましたが、やはり知りませんでした。

かつては世界中の子供に感銘を与えたであろう「クオレ」これまで世界でどれだけ読まれたか分からない「クオレ」...そして今ではイタリア文学史の中でさえ、価値なしと見なされている「クオレ」

さて、運良く杉浦明平訳の「クオレ2 」が復刊されたので早速読んでみました。不思議なことに「仕掛け」が分かった後でも、この本やっぱり泣かされます。

これ、ひょっとして、老化現象の涙もろさかしらん。

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  1. 藤沢房俊.筑摩書房.(1993) []
  2. 杉浦明平訳.クオレ. 講談社 (1988) []

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