用事が出来て上京しました。ついでに長いこと観たいと思っていた、埼玉県は蕨市にある「河鍋暁斎記念美術館」に足を運びました。河鍋暁斎(1831〜89年)は、本来狩野派に属し、葛飾北斎を師とあおいで、浮世絵をも学んだ画家ですが、目から漢画、大和絵など多くの流派を研究し、その結果身につけた抜群の描写力で、幕末から明治中期まで活躍した巨匠です。
然し、その名はむしろ外国で有名で、国内では長いこと忘却の彼方にあった画家です。私は、村松梢風の「本朝画人伝」などで、暁斎の名は知っていましたが、その作品を実際に目にしたのは、1987年に「リッカー美術館」で開かれた「河鍋暁斎版画版本展」が初めてでした。①1
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その時同行した我妻さんは、観るなり、「達者な筆ねえ」とつぶやきましたが、素人目(しろうとめ)にも歴然とわかるその筆力は、暁斎の研究熱心の賜物(たまもの)な訳で、それが、玄人(くろうと)の認める抜群の描写力ということになるのでしょう。
明治14年、第2回内国勧業博覧会に出品した「枯木寒鴉図」は売価百円で、飴の「栄太郎」の主人が購入したことで有名ですが、その当時、今は高級ブティック高級ファッションの街として名の高い青山の土地が、千坪で¥15だったと言いますから、驚きます。
さて、1988年には「河鍋暁斎戯画集」が岩波文庫として出来ました。生来の反骨家、暁斎が、自分の生きた幕末明治の世相の種々相を、切りに切った痛快な諷刺画集です。鋭い諷刺のため、官憲にねらわれ、「牢獄にいない時は〜家にはいる」とまで言われた暁斎の真面目(しんめんぼく)あふれる作品集で、見ていて飽きません。
②2
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1990年には、暁斎から「暁英」なる画号を与えられた英国人、ジョサイア・コンドルの「鹿鳴館の夢展」が開かれ、合わせて彼の業績と、師との関係を論じた図録がでました。言うまでもないことでしょうが、コンドルとは上野の博物館やら、駿河台のニコライ堂を設計した建築家です。この本には、暁斎の「木菟図みみずく」のコンドルによる模写があって、フクロウ好きの私には嬉しいものです。
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一方、暁斎の方の伝記は、既に1984年にペリカン社から飯島虚心の「河鍋暁斎翁伝」が出ていました。暁斎記念館館長の河鍋楠美女史が、「〜暁斎研究の上で、どうしても目を通していただきたい文献は二冊ある〜」としてジョサイア・コンダー(=コンドル)著「河鍋暁斎」と共にあげている名著です。更に、1994年になって、大野七三の「河鍋暁斎−逸話と生涯」が出ました。②3
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③4
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これは、先行する諸家の研究と暁斎の逸話とを巧みにないまぜたもので、初めて暁斎に接する人には、読み易くわかり易い本です。
さて、私が多大の興味と期待とをもって訪ねた「暁斎記念美術館」は、実は暁斎の曽孫にあたる河鍋楠美女史(医学博士、眼科医院長)が、1977年に独力で開いた美術館です。
彼女は、歴史に半ば埋もれていた曽祖父、暁斎の顕彰のために、自家に伝わる下絵、粉本等を軸にして、完成品130点余、版画1000点余、巻物45点余他を菟め、更にそれらの展示のために、美術館を建てたのです。
「〜直系四代にわたり下絵を保存している例は、世界でも他にありません」と女史は誇らかに語っていますが、誠にその通りで、美術愛好家にとって実にありがたいことと言わねばなりません。暁斎の挿絵本の展示を観たあと、私は別館で紅茶をご馳走になり、図録数点を求めて、心豊かに辞したことでした。
皆さんも行ってみては如何が?京浜東北線、西川口駅西口下車タクシー¥650です
尚、目下、新宿小田急デパートで「暁斎展」開催中。時間がなくて私は断念したのが、無念残念です。