`00.11.15(水)寄稿
私は、理科学系,工学系、それに歴史関係の本を読もうとする時、手始めに、子供向きに書かれた本や、それをテーマにした小説から読むと言うことをしばしばする。いきなり、理論、学説で固めた本を相手にするよりははるかに取り付きやすいからだ。逆に、しょっぱなから、学術書を手にして苦労した挙げ句、上記のやり方とは順が違うが、途中で児童書やら小説やらを手にして、理解が容易になったことも、よくある。「お吉写真帳1 」はそうした私の読書方法からして、すすめるに値する本だ.例えばこの本には六つの小説が入っているが、その第一話は「ヘダ号建造」だ。
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これは、私の大好きなテーマを扱っていて,,,安政元年(1855)に伊豆の下田で結ばれた「日露和条約」なるものがあるが、その時、ロシア側の大使として来たのが、プチャーチンで,,,ところが、劇的なことに、彼らが乗って来た船が、下田に滞在中、安政の大地震による大津波でこわれてしまう。そこで幕府の助けを得て、彼らはナント、伊豆の浜で、帰国のための船を作ると言う大仕事にとりかかる。まことに、壮大なかつ意気堅剛な話だが、その時建造の地に選ばれたのが戸田浦(へだうら)だった。
ロシア人達はここで、日本人船大工の手を借りて、いわゆる様式船を造るのだが、この時かり出された船大工の一人が、上田寅吉でこの短編の主人公だ。出来上がった船は名は、もちろん「ヘダ号」。
この一介の大工(寅吉)は後、オランダに行き、6年の長さを費やして造船技術の習得につとめ、「開陽丸」を運転して、帰国した。
この辺りのことをむずかしく書いた本には、大塚武松の「幕末外交史の研究2」
や、高野明の「日本とロシア3 」
があるし、プチャーチンに関したものでも、森義男の「プチャーチンと下田4」
とか、大南勝彦の「ペテルブルクからの黒船5 」
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と言った本があるし、一方、ザドルの「北から来た黒船」と言う出鱈目きわまる本もある。つまり阿部の短編は、これらの本に行き着くための最初のとっかかりとして、悪くない作品で、同様の意味で他の5編も皆面白く刺激的だ。
さて、菊池重三郎著「木曽馬篭」なる本がある。もう40年位も前の本だが、`77年に中央公論美術出版社から再刊された。高校出たての頃、私はこの本を読んで泣けた。話は、敗戦後、人心の荒廃がその極みに達した時、馬篭(=まごめ=島崎藤村の故郷)の村人達が、宿場本陣をつとめた藤村の旧宅跡に、藤村の記念館を作って、村人共々世人の心のよりどころにしようとしたはなしだ。村人達は老いも若きも.夜を徹して、深い谷底から建材とするための石や木をかついで運び上げる。泣いたあと、私はこの地を訪れて、その記念館を見たのだが、それを設計したのは谷口吉郎だ。
この清楚きわまりない記念館を一つだけでも。谷口は建築史上にに残る人だと私はおもうが、この谷口は、若き日にベルリンに留学した。その時、ベルリンで、いや全ドイツにその名をうたわれていた建築家が、ヒトラーお気に入りの、アルベルト・シュペーアだった。
後にニュルンベルグの法廷シュペーアは戦争犯罪人として裁かれるが、この空疎きわまりない建築を建てた男の数奇なる人生を描いた「ヒトラーの建築家6 」は谷口も登場して、中々読ませるぞよ。
さて又、バルブだか、バブルだか知らねども、大企業のもうけ一筋、なりふりかまわぬ金の亡者ぶりは一体、いつからこうも、日本に定着してしまったのだろう。
会社が金をためこみながら、こうジャカスカ人員整理をして末はどうなるのだろう,,,と思うのは私一人ではあるまいと思うが、昔の日本はこうではなかったぞと言うことができる”証”のような本がでた。「大阪町人学者たちからの伝言7 」
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この本は一口に私流で言えばガメツイ大阪人が、実はガメツイどころか、天下国家は言うに及ばず、おおよそ人の為世の為になる学問なら、それを育てるのに金に糸目は付けぬと言う目をみはるような「志」の実例をあげた本だ。
天文学の間長崖(はざまちょうがい)は質屋の親父だ。経済学の山片蟠桃(ばんとう)は両替屋の番頭だ。蘭学者の橋本曇斎(どんさい)は傘屋の紋書だ。これらの町人が豪商達の援助を受け、或は自ら稼ぎ、如何にして、学者となり、人の為につくし、かつ、大阪の商人達はこれをいかに助けたか!!読んでいる当方も「志」高くなる。「金の亡者共に」も読ませたいと言っても無理か?
「日本学者、フレデリック・V・ディキンズ8 」は今では殆ど知られていない日本学者ディキンズの初めての伝記.「竹取物語」の最初の英語訳者のこの人についてはもっと知られていい。