第181回 翻訳の力

`01.4.18寄稿

大学1年の夏休みの宿題にとて、ウイン先生から「シンクレア・ルイス」(Sincla Lewis、1885−1951,アメリカ)の代表作「Main Street」を読んでくるように言われた。

張り切って訳しにかかって、とにもかくにも大学ノート何冊かにまとめたが、ちゃんと読めたのかとなると、とてものこと自信がない。大体、辞書に出てこない言葉が次から次と〜と言う感じで途方にくれたが、後年(1971年)、斉藤忠利の訳で出た岩波文庫本、全3巻の「本町通り1 」を読んで、成程なあと了解したのは、いわゆる俗語(スラング)の頻出(ひんしゅつ)が、読者を悩ませるもとだったのだ。

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このあと、今度は、「J・フェニモア・クーパー」(James Fenimore Cooper、1789−1851、アメリカ)の「The Last of Mohicans」を読んだ時にも、5つも6つも(だったか)出てくるインディアンの部族の名に困惑させられた。これも、後年、犬飼和雄訳の「モヒカン族の最後2 」(学習研究社)を読んで、実はこの違うかに見える呼び名が、全部1つの部族を指す言葉であって、訳者も、これに悩んだ、との解説を読んで納得した。

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大学2年の夏休みにはJ・コンラッド(Joseph Conrad、1857−1924、イギリス)の「Heat of Darkness」が宿題だった。これも一夏かかって大学ノート2冊に訳したが、やはり何となく心もとない。これは戦前(昭和15年)に、河出書房が出した「新世界文学全集」に、中野好夫の訳で入っているのだが、宿題に出た当時は、古本でも、仲々みつからぬ部数の本だった。

仕方がないから、研究社から出ていた「小英文学叢書」の中にある中野好夫註釈本を相手に読みすすめたのだが ・・・・その時つくづく感じたのは、東大英文科教授=中野の力と言うもので ・・・・なにしろ、行きづまって註釈をみると、そこには、あたかも「分からなかったろう、こう言うことだよ」と言わんばかりに、待ち受けていたかのように適切な註があって成程なあーと、疑問が氷解するのであった。昭和33年になると、中野の新訳「闇の奥3 」が岩波文庫で出て、私は大学ノートの自分のあやまりを正すことが出来た。因みにコンラッドと、トマス・ハーディは私の好きな作家だ。

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これだけの力なくては原書は読めぬのだと実感した訳。

まあ、こうしてノートに訳したり、読み飛ばしたりした本をあげていっても切りがないので、話を変えて「翻訳」なるものについての、記憶に残っている話をいくつか紹介すると、 ・・・・・アメリカのノーベル賞作家パール・バックの「大地」(Good Earth)を初訳したのは、後年世田谷区長になった文化人、新居格(にい いたる)で昭和10年のことだが、中で、「match maker」マッチ・メーカー=仲人と訳すべきを新居がマッチ製造人とやったのは、有名な話だ(そうだ)。

明治の作家、田山花袋もフランス文学やロシア文学を英語訳で読んだ人だが、ナンデモ、「がんとう(=巌頭)の獅子」と言う表現(原語は忘れたが)、「進退これ、谷(きわ)まる」ことの表現だ(そうだ)が、これをそのまま「岩頭の獅子」と訳して笑われた(そうだ)。もっとも、今時の人は、「谷まる」をそのまま、「たにまる」としか読めぬから、ひどいものだ。

フランス文学者にして作家、批評家の中村真一郎は希代(きだい)の読書家で、その「読書日記」なぞを読むと、こちらが聞いたこともないような作家(それも東西古今の)を読みまくっているが、そんな人でも、ポール・クローデルの「繻子(しゅす)の靴」を訳した時には、誤訳ありとたたかれた(筈)。

又、英文学者の本多顕彰も、シェークスピアの「ハムレット」だったか、「ロミオとジュリエット」だったか、を岩波文庫で出した時に、誤訳とやられた(筈)。

イギリスのイブリン・ウォーの「黒いいたずら」を訳したのは、ケンブリッジ大学中退の英文学者、吉田健一で、これは、東大英文科出身の小説家、評論家の丸谷才一によって、「非常に優れた翻訳」と讃められたが、東京都立大学の神父、W・A・グロータースによると、この訳は「本文の最初から誤訳また誤訳」で、「全体として、いい加減な仕事、という印象だ」と言う。イヤハヤ!!

私は吉田健一訳のウォーの作品は、「黒いいたずら」の他に「ブライツヘッドふたたび」と「ギルバート・ピンフォールドの試練」の2冊を読んで持っているが、グロータースさん、どうしてくれる!! とは言え、この3冊、原書で読む苦労を考えてごらん。誤訳又誤訳でも、日本語は楽だ。とは言え、丸谷才一も当てにならんなあ。

さて、最近(メモをとらなかったので正確ではないが)「B級翻訳でも楽しんできた」とか言う本が出た。私は自分の語学力からして、何が何でも原書を読まねばならぬ、などと主張する気は毛頭なくて、「翻訳でいいから、どんどん読みなさい」主義だ。並々ならぬ語学力なくしては、原書なぞ数こなせぬ。多少誤訳があろうとも、自分よりはいいだろう、と言うのが私の結論だ。

以上、苫小牧のアマゾネス達から、「翻訳」について語って、とのリクエストが来たので、とりあげた次第。

下の本は最初の吉武のもの以外は入手可能。私が面白いと思ったものです。①4

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  1. シンクレア・ルイス斉藤忠利訳.本町通り.岩波書店 (1970) []
  2. J・フェニモア・クーパー犬飼和雄訳.モヒカン族の最後.早川書房(1993) []
  3. J・コンラッド.中野好夫.闇の奥.岩波書店(1958) []
  4. 吉武好孝.明治・大正の翻訳史.研究社出版(1959) []
  5. 秋山勇造.翻訳の地平—翻訳者としての明治の作家.翰林書房 (1995) []
  6. 辻由美.翻訳史のプロムナード.みすず書房 (1993) []
  7. 別宮貞徳.翻訳.作品社(1994) []

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