第201回 マンローとアイヌ文化

`02.5月17日寄稿

5.6年前だと思うが、千歳の飛行場の待合室にあるギャラリーで、「ふくろう蒐集家」の私としては、瞠目垂涎(だもくすいえん)、故に、看過出来ぬ彫刻を見た。つまりは、まなこ開き、よだれたれ、見過ごそうとしてもダメ、と言う代物で..それは...熊が木に背をもたれさせ.両足を前に拡げと言うか、投げ出して、本を読んでいる。そして、その頭の上には,文字通り頭の上にであって、頭上の枝と言うのではない。この構図で、全体が電気スタンド、よりはナイトランプと言った方がいいか...になっているのである。

高さは50㎝程だったろうか、知的でユーモラスで、先述したように、欲しくてよだれが出たが美術品に関しては強欲な(時に贋作を売る)三越が開いているので、値段がわからぬ、“自由にお訪ね下さい”と言うが、どう気楽に見ても、10万から20万はすると見たので、聞くのは止めた。

さて、昨年のこと、苫小牧での講演のあとの集まりで、私が何かの話で、上記の彫刻にふれると、その彫刻家を知っていると言う人がいた。

その人の話では、彫刻家は毎年、東京、丸善でのクラフト展にも出品する作品は3.4月頃が一番揃っていると言う事だったので、私は4月のある日、その彫刻家を探して、二風谷へ行くことにした。ところが、その前日に登別は「知里森舎」の横山むつみさんから手紙が来た。むつみさんは文学博士知里真志保の兄さん、高央の娘である。

むつみさんは、刺しゅうの研究調査でスコットランドに行って来たと書いて来た.マンロー博士の蒐めたアイヌの生活用品その他を調べてそのレプリカ(複製)を作るための旅だったと言う.“スコッットランドかいいなあ”と思いつつ翌朝私は二風谷に向かった。

教えられた「つとむの家」を探して、看板を見て、最初に入った店では対応がナントナク、チンプンカンでと言うのは、苫小牧の人が既に連絡して呉れている筈だったので、変だなあと思っていると、私の探すのは、この店主の兄だと言う事がわかった。「つとむの家」は兄弟2軒ある訳。

さて、兄さんの家をたずねると、当てが外れて、作品が何もない.それで、作品のアルバムを見せてもらって、“まあこのような趣のものを、時間はかかってもよいから”...と言う様な調子で注文を終えた。...で出されたお茶を飲みながら、テーブルの上を見ると「マンロー展」のパンフレットがある。「あーマンローね』と言って手に取ると、店主が言うには、「このことで、スコットランドに行って来たんです」と“ オヤヤ、じゃ横山むつみさんもいったでしょう””あれ、御存知ですか”てなことになって話が弾んだ。

彼の話によると「アイヌ文化振興研究推進機構」の働きで7人の工芸家が参加した由。上記の長たらしい組織の名を聞いいて私は又「オヤヤ、じゃ梅原君もいたでしょう」と言うと、彼も又“御存知ですか”となった。

梅原君は、室工大出身の有能な男で、学生時代から私の家の飲み会の常連である。現在は同機構の何とか課長の筈。

言い遅れたが、この彫刻家は、二風谷の「北の工房つとむ」の貝澤徹氏である。

さて、連休になって「マンロー展」に行こうと思っていると、身内に、あの世に行く人が出た。で連休変じて葬式習慣になってしまったが,気をとり直して,日曜日に行って来た、展覧会の正式名は「海を渡ったアイヌ工芸―英国人医師マンローのコレクションからー」で、場所は、北海道開拓記念館.4月26日6月9日まで無料です。

「わがマンロー伝1

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会場には、成る程,横山むつみさんによる木綿衣も、貝澤徹さんによる民具も並んでいた。貝澤さんは“先人の作品の隣に複製とは言え自分の作品が並べられるのは,気恥ずかしい”ような意のことを言ったが,7人の工芸家の作品はどれも素晴らしくて,先人に比して遜色なしと私は見た。

この「マンロー展」の意義は見るものによって様々だろうが,私は7人の工芸家が参加したことが一番意義があったのではないかと思う。アイヌの文化を高し..とみたマンロー,彼にかく感ぜしめた7人の工芸家の先祖達,質高い文化を遺して既にあの世又次代にわたすべくこの世にいる者と...その間に言うに言えぬ交感があったのではなかろうか(※

交感=コレスポンデンス)その交感を私は信ずる。


  1. 桑原千代子.わがマンロー伝.新宿書房(1983) []

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