`02.8月9日寄稿
オスカーワイルド(1854〜1900)は19世紀末英文学を代表する作家だ。詩では「レディング監獄のうた」小説では「ドリアン・グレイの背後」戯曲では「サロメ」.児童文学では「幸福な王子」が有名だ。「サロメ」については」面白い話が或る.“ 貝谷さんが、サロメを180回も踊られたのは、当時進駐軍の兵隊がそれをよろこんだからです。ブラジャーが一度外れたときがああって,大騒ぎして彼らは喜んだのですが,戦前は人前で赤ん坊に乳を飲ませるのは普通だったので,どうしてそんなに騒ぐのかわかりませんでした。”と語るのは,十勝は音更(おとふけ)で育った作曲家の伊福部(いふくべ)昭.釧路出身1914(大正年〜)聞き手は,オスカーワイルド研究家の堀江珠喜
伊福部は1948年(昭23)に「バレエ曲サロメ」を作曲、バレリーナの貝谷八百子が振り付けした。(貝谷バレエ団十周年記念帝劇公演のためのもの)上の話はこの時のものである。
この話は一寸表現がかわるが②「伊福部昭音楽家の誕生1 」にも出ていて,,,,“ 私達は,電車の中でもお乳出して子供に飲ませると言うのが日本の習慣だと思ってますから。ほんの乳ぐらいで、あ、そんなに向こうの人は気にするもんか、と逆に驚きました何しろ、こっちは30をこえて、そんなものには鈍感になってましたから。〜”②について,以前私が書いた文章が①である.ここで,5年前の本を出して来たのは,苫小牧の墨谷さんから伊福部について質問が来たからで,彼女が言うには,伊福部の兄弟が書いた本がどうのこうの....と。
それが③「沙流アイヌの熊祭2 」である。宗夫は,伊福部家の長男で,北大出身の工学博士だが,マンドリンを良く弾いた.卒業後、病を得た彼を心配して師の鷹部屋福平は、彼をナント,二風谷に移し、故マンローの家に住まわせた。静養がてらの留守番と言う訳だ。※マンロ―については「図書館だよりひまわり」第20号参照
②の続編と言うべき本が出た。木部与巴仁著/「伊福部昭.タプカーラの彼方へ3 」/ボイジャー/¥3200注文制申し込み03-5414-3101=ディーボへ
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因みに鷹部屋福平(たかべやふくへい)は、(1893~1975)構造力学の権威で、「アイヌ住居の研究」などの論文もある。
さて、宗夫は戦中戦後にかけて6年間を二風谷で過ごした.その頃の二風谷について宗夫は“ この部落は戸数約百戸その住民の7割はアイヌ系の人達であって、現存するもっとも純粋なコタンの一つである”と書いている。③は、工学博士の宗夫だが、自ら参加した熊祭の体験を、古老の二谷国松などの話で補強して成った貴重な記録だ.33年前の本で、その辺においそれとあるとは思えぬから、どこぞで、復刻してくれぬものかなと、思う。
伊福部はアイヌ音楽を自覚的に取り上げ、自己の内部に取り入れたようだが、(②の第4章アイヌ音楽参照)、又先住民族のギリヤーク族(これは他称、自らはニブフという)の音楽にも注意を向けた。
そのきっかけを作ったのが、彼より5才年上の服部健(たけし)である。服部は樺太に渡って、ニブフや、当時はオロッコと言ったウィルタなどの北方少数民族の事を調べた。その結果成ったのが④「ギリヤーク4 」出版を進めたのは、知里真志保だった。
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書中「ギリヤーク研究」の章には「ギリヤーク研究小史」があって、間宮林蔵から始り、松浦武四郎を経手云々とあるが、服部自身の研究はその後もちろん深められてその集大成が⑤「服部健著作集―ギリヤーク研究論集ー5」だ。えらく高価な本だからこれは、図書館でみるのがいいだろう。
伊福部昭が大好きな作曲家はエリック・サティだそうだが、そんな伊福部が他を圧してそびえ立っている分野は、映画音楽だ。それについて詳細きわまる案内書が⑥「伊福部昭の映画音楽6 」だ.あれも添うだったのか、これもかと、その数と内容とに圧倒される。
さて、伊福部について問い合わせをよこした墨谷さんは、来る12月に、幸運にも、中本ムツ子さんに連れられて上京すると言う.千歳在住の中本さんは「アイヌの知恵―ウパックマ1.2」や「エクスプレスアイヌ語」の著者として高名な人だ。中本さんの用事は、東京音大の民族音楽研究所が主宰するナントカ(詳細はいずれ又)に出席するためで、その折伊福部と対談するのだと言う。どんな話向きになるのか、あとで、教えてもろうのが楽しみだ。
話かわるが、9月からたんぽぽ文庫主宰で「ふくろう先生と行く文学の森」と題して、不肖私が、英仏文学について月回語る会を持つ.第1回目は9月3日(水)10〜12:00於、図書館3F講堂.演題は「サロメ』の原作者「オスカーワイルド」だ。当然伊福部についても語ろうと思っている。