`04.12月15日寄稿
今から16年前の初夏道立美術館で、インドの「マハラジャ」展が開かれた。マハラジャとはサンスクリット語で「大王』のこと。つまりはインド各地の土候国の王を指して言う(そうな)。この展覧会、何ともはや、ケバケバしいもので、冠やら衣装やら、首輪やら耳飾りやら、いずれもキンラ.ギンラ、ピカピカ、ジャラジャラと言う感じで、余り感心せなんだ。おまけにすごい人出で押すな押すなの有様。ウンザリして出ようとした出口でわたされたのが、「ミティラー民族画展」のパンフレット、会場は一寸離れた札幌アートプラザ.ミティラーって何だ?。...で行ってみた。
こちらはガラガラと言っても蛇にあらず、客が私と家内の2人だけだったので、あとはインド人の婆さん3人インド人の男1人、それに日本人の男一人(と言っても、この人、影に引っ込んでて会場には出て来ない)。ポスターを見ると“母から娘へ伝承されて3000年、壁に描かれた神々のコスモロジー”とある。ミティラーとは、北インドのビハール州北部にある地名だそうだが....この絵のことを、美術史家の柳宗玄を引いて解説すると、
“インドの田舎の町や、村を朝歩くと、たいていの人家の入り口の道路上に、白い線で絵が描かれているのを見る〜.これらの絵は、一家の主婦が家族のその日の幸福の願いをこめて、毎朝夜明けに描くもので〜図柄は〜抽象的文様が多いが、太陽、月、蛇、魚、樹葉などの具象的な形が〜少なくない〜”。そして、その描き方と言えば、“〜先ず地面を水で十分に湿らせてから、米の粉を指先から落としながら描いてゆく。”どうして、米の粉かと言えば、それは“地上の小さい虫や蟻をも育てようとするインド古来の美風によるものだと言う!!。
こうして、描かれていた絵が、1930〜40年代にイギリスの行政官 W・G.アーチャーの気付く所となって、(細かいことは省いて言うと)、紙に描かれるようになり、一種のプリミティヴアート(原始芸術)として世界に広まったのだと言う。
さて、私の見た時は、3人のお婆さんが、まこと退屈気であったので、家内の案で「ふくろうの」の絵を描いてもらえぬか、とインド人男性に聞いてみると、インド語(?)でナニヤラ、カニヤラのあと、okとなって、お婆さんが聞くには北海道にもふくろうがいるのか?と、それで「シマフクロウ」の話をすると、そんな化け物みたいなふくろうは聞いたこともない。インドのは25㎝位の大きさだと言って、まあとにかく描いてくれた。マッチ棒の先に、鍋の底の墨を溶いたものをつけて、一種の点描法で描いていくのである。
小一時間して出来上がり、私は向こうの言うまま¥6,000を払い、そのまま狸小路の松山額縁店に行って入れて来た。こんなヤリトリの間奥に引っ込んでいた日本人が、ようやく出て来て、この長谷川さんなる人が、東京のカレーライス屋さんの主人で、ミティラー画に魅せられて云々の物語を聞かされた。
それから1年程して、この長谷川さんから手紙が来た。読むとミティラー画に魅せられての人生が又一歩進んで、何と新潟の十日町の山奥に、小学校の廃校があるのを買い取って、そこに施設の「ミティラー画美術館」を開いたと言う。是非来てくれとあったので...その夏室工大の卒業生と出かけた。バスを用意してくれたので大助かりだったが、着いてみると、又インドのお婆さんが3.4人と札幌で話したインド人男性1人がいた。絵は大小数十枚が、運動場を主にして、壁に張られていた。
このとき幹事をしたのは、今道立美術館にいる梅原君で、これが名幹事だった。実にあっちこっち歩いたのだが、最高によかったのが、越後の「豪農」めぐり...当時公開されていた十家を全部みてあるいたのだ。「越後豪農めぐり1 」
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どこもかしこも、言語に絶すると言うか、まあ、呆れるしかない、ドデカイ屋敷ばかりで、例えば、最初に見た、伊藤文吉邸たるや、8,800坪の敷地に1200坪の日本式建築の邸宅と言う具合で、余りのすごさに当方が具合悪くなるような具合だった。
ところが、それ、先日の新潟地震です。もう、美術館はやめていまったのか?長谷川さんの方から、取り分けての知らせはないけれど、新潟を見ていたら、越後町の豪農家屋、重要文化財の長谷川邸に被害が出たとあります。ここは何しろ屋敷地の間口約70m、奥行き約120m周囲に回し豪と土塁と林木をめぐらし、と言ったすごい所です。一体どんな被害が出たのか。
話を変えるが、私が講師をつとめる「ふくろう先生と行く文学の森」の第三期4回は、無事終わったが、苫小牧分は、室蘭より1回多くて、その5回目を1月8日(土)に決めて題目を「聞いて熱中、雪の話!!」と決めていた。中味は何かと言うと、2つに分けて1つ目は、「北越雪譜」の話。2つ目は「雪崋図説」の話だ。いづれも、日本の「雪」について語る時には、これを差し置いて、他の話をする,,,なんぞ...とは到底考えられないもので....と言う訳で、この話を寒い寒い1月にする...と決めていたら新潟地震だ。びっくりした。
と言うのも②は今おくとして、①は「新潟」の雪の話だからだ。「北越雪譜2 」(ほくえつせっぷ)を書いたのは鈴木牧之(ぼくし)(1770.明和5〜1840天保13)なる塩沢生まれの人。この本雪国の風俗、習慣、言語を伝えんとしたものだ。これが天保8年(1837)に出版されるや、塩沢町、六日町、湯沢町、小ヶ谷市、堀之内町、大和町、十日町などが、一躍全国的に知られた。これ、皆、今回地震におそわれた所です。
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今、問題の山古志村は「牛の角突き」と呼ばれる闘牛で古来有名で、かの馬琴も「八犬伝」中に「〜北国中の無比名物、宇内(うだい=天下)の一大奇観なり〜」とかいていて、こうした記述が出来るのは、牧師が教えてくれたからだ、と言っている、と言う訳で、今回は牧師に関する本を出した。「北越雪譜」の現代訳は(全訳)は野島出版から出ている。牧師のもう一つの著作「秋山紀行」の現代訳には、平凡社東洋文庫版ではモノクロームの絵が原色で入っているので山岡の本は入門書として...いい。ありがたい。「越後国雪物語3 」
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「秋山紀行4 」中の「黒駒太子の御影」は聖徳太子の話で、これ又面白い話だが、又野機会にする。地震を案じ筒、これらの本を選んだが、読者もこれらの本で新潟の雪のすさまじさを知って下さるように!!
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