第238回 横浜事件

`05.4月5日寄稿

「琴は西片町あたりの垣根越しに聞こえるがいと良き、月に弾く人のかげも見まほしく、物がたりめきて、床しかりし」樋口一葉の「あきあはせ 」の一節だ。

次「翌日は約束だから、天長節にもかかわらず、例刻に起きて、学校へいくつもりで、西片町十番地へはいっての3号を調べてみると、妙に細い通りの中程にある。古い家だ」こっちは夏目漱石「三四郎」からだ。

西片町は、東京文京区にあって、東大農学部の前に広がる屋敷町だ。昔、福山藩の阿部氏の屋敷と、幕府の徒士(かち)組の屋敷地だった。だから町内の八分通りは阿部邸の借地だった。私が聞いた話では、何でも、家康が、阿部に向かって、欲しいだけ土地をやると言った所、阿部はいきなり馬にまたがって走り出し、日の暮れる頃になって帰って来た。今走って来た線の内側を全部を下さいとやったと言う。日がな1日走って来たにしては、ちょいとせまいんじゃないの?と思わぬでもないが、ひょっとしたら、家康が話しかけたのが午前中ではなくて、午後の3時か4時だったのかも知れん。馬に飛び乗る時間を翌朝にすればよかったかもな。

呑気な話はこの位にして、実は私は、大学時代をこの西片町の三四郎が言う所の10番地の、これが残念3号ではなくて、15号で暮らした。と言うのは、いろはにほへのだ。

その家は棟門のついた立派な構えの家で、家主が言うには、芦田均がかって住んでいたと言う事だった。「あしだひとし」とは、外交官として、トルコやベルギーで働いたあと、リベラリストの(自由主義者)政治家として頭角をあらわし、戦後直ぐに首相となったが、世に「昭電疑獄」と呼ばれるもので、辞職した人。昭和30年代前半に亡くなった筈だ。

へえ、これが芦田均の家か....と聞いて。別に疑ぐらなかったのは、家の作りが中々で、玄関の上には三方ガラス張りの洋室がついていたし、私達兄弟が入った部屋にも洋間で14.5畳位か、漆喰天井にはシャンデリアが下がり、入って全面には柱を中心に、アルコーブ式のへこみが2カ所あって、床から天井まで本棚が作りつけられていた、と言う具合だったからだ。

この下宿では、日大、中央大、慶大、日本女子大、共立女子大、東大、おまけに台湾からの留学生夫婦もいて、それが各各専攻が違うから。集ってしゃべると、結構面白かった。私の部屋から廊下に出ると、向かい側に和室が3つ並んでいたが、その中の3帖間にいたのは、東大で地球物理(だったと思うが)をやっていたOさんなる大学院生で、この人はそのあと渡米した。俳優の岡田英治に似たこの人は信州出身で、いかにも教育県長野から来ましたと言わんばかりに、いつも三四郎ではないが、紺の絣(かすり)の着物でいたが、それはいいとして、この人には妙なくせあって、それは昼寝したりする時部屋の戸をあけ仰向けに寝る...ところが、前がはだけて、何やらアヤシゲなるものがのぞく...というのが常で、これがわざとなのか、本人のあづかり知らぬことなのかは、我々には解しかねた。

本人は、女子大生連にキャーと言わせたかったかも知れぬが、日本女子大も、共立女子大も、その手は喰わなんだ。

この珍人は、秀才らしく、何事にも「ソンナコタア、ドウデモイイ」と言う冷ややかな態度だったが、或る時からそうでなくなった。それは私が、読んでいる本をのぞいて、一寸貸してくれと強引に持って行って、..の結果だ。少しは真面目に物を考えたのだろう。

それは向坂逸朗の「嵐の中の百年ー学問弾圧小史ー 」でまあ、薄っぺらいと言っていい小さい本だった。この本について私は、昨年9月に出した、拙著「本の話」の第152回「ドレフェス」を論じた個所でこう書いた。...『高校2年の時、内山完造が講演の途次に旅館業の我が家に泊まったが、床の間の“山奥で読書中の陰士、山道には薪を背負った樵(きこり)という変哲もない画をみて「働く人がいるのに、本を読むのはよくない」と語った。私は憮然としたが、大学で「魯迅全集』を読んだのは、やはり内山との解合に原因がある。後内山から聞いた向坂逸朗の「嵐の中の百年』を読み、思想が、思想故に圧迫されるという憂えるベキ問題に感心が向いてからは「戦時下抵抗の研究」で論じられるような事件や転向問題の本にも気を配って来た』〜因みに向坂逸朗は九州大学の先生だった。

さて、こうした感心から、私の注意を引いた事件の一つに「横浜事件」がある。今年は「アウシュヴィッツ」解放60周年のように、戦後60周年なるものが結構或る中で、この「横浜事件」もまあ、それに近いものだ。この事件は結論から言うとフレームアップ.つまり、でっち上げられたもので、過ぐる3月10日、東京高裁が、再審開始支持の決定を出した。3月10日と言えば、一挙に10万人が焼死した東京大空襲の日で、それから数えるとやはり60周年だ。

「横浜事件1

「横浜事件の人々2

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「横浜事件の真相3

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では、その事件とは...戦前「改造」と言う総合雑誌があった。その1942年の3.4月号に、細川嘉六という東大の出の社会運動家が「世界史の動向と日本』なる論文を書いた。ところが時が時だけに、と言うことは、当時は「聖戦」ととなえて戦争中だったから、軍部の方では、これを、反戦思想を発表したものとして、問題にし、これを発売禁止とし、余勢をかって、この細川が、富山県の泊町なるところで、友人やら、弟子達とやった飲み会に目をつけて、この時集っていた7人全員を、しょっぴいた。その上、反戦思想をとなえる者、伝える者と見なした中央公論社だの、岩波書店だの、日本評論社だのと言った出版社の関係者70人余人を調べた。

この結果獄中死4.5人を出して、と言うことになったのだが、

これが、先の結論に戻ると、どうも冤罪(えんざい)=無実の罪らしいのだ。

と言う訳で、今迄色々読んで来たが、私が最初に読んだのは、青山憲三の本だった。ローマ法王はガリレオを断罪したことについて謝罪した。「ドレフェス」も「アウシュヴィッツ」もそして、「横浜事件」の当事者ももそうありたいものだ。「あやまち」を改めるには憚ることなかれ!だ。

  1. 渡辺潔.横浜事件。日本エデタースクール出版部(1977) []
  2. 中村智子.横浜事件の人々.田畑書店(1989) []
  3. 木村亨.横浜事件の真相。筑摩書房(1982) []

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