`05.6月10日寄稿
昔「愚行(ぐこう)の世界史」と言う本があった。「愚行」とは、おろかしい行い、馬鹿げた行為のことだが、当節あちこち眺めていれば「世界史」とまで気張らないでも、「愚行の現代史」位はたちどころに出来るという感じがする。己のおろかさは、棚に置いて言うのは断るまでもないが、まあ、毎日毎日、新聞には愚行の見本みたいなのが、次から次とよう出てくるわ。私は新聞の切り抜きをするのを司書の役目の重要な一つと考えてる者で例えば、全国紙の死亡記事は丹念にみる。みてどうするか、と言えば、死んだ人が人名事典に出ているような人であれば、それを切り抜いて該当する人物のところにはる。「新潮日本人名辞典」に貼ろうとすると、辞典が出来た時点での記述は「文化功労章」受賞で終わっている人が、最終的には「文化勲章」を受けることなどが分かったりして、仲々面白い。
しかし切り抜いたものがいつでもうまく本に収まるかと言うと、貼る本がないつまり、該当する事が書いてある本がないこともよくあった。その場合は,貼る事が出来る本の出現を待たねばならない。それはともかく、どんな話かと言うと,高校時代に軟式野球のピッチャーをしたことのある19歳の大学生が頭(かしら)となって,高校生も入れて,4人の「卵投会(らんとうかい)」なる名称の会を作った。
これ何をする「会」かと言うと、生卵を持って,ビルの屋上に,もしくは上階に陣取り、それを下を通る車のフロントガラス目がけて,投げつけ,運転手が驚くのを見て楽しむ...と言う、バッカジャナカロカと言う事を実行する会なのだと言う。車体もへっこんだりすると言うから,玉子なるもの,妙な威力があるんだなと分かるが、この馬鹿々々しい行為、これ大人のする事だろうか。
飽食肥満の今の世にある「大人子供』=(子供のままでなりだけ、大人)に向かって、「あーもったいないことよ」と言ってみたとて、始まらぬが、それにしてもやはりもったいない。昔玉子は貴重品だった.例えば福田真人著「結核という文化1 」(中公新書)を読んでごらん,結核をなおす栄養源の必須の物の一つとして,玉子が使われていたことがよくわかる。
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明治の文人高山樗牛(ちょぎゅう)なぞ、療養生活で日に3本の牛乳、3個の玉子、と決められていた。そしてこの玉子はおいそれとは手に入らぬ貴重品だった。(と言うようなことは今の読者、殊に若者は読んでいて、退屈するだけだろうがね。)
さて、馬鹿の一種を通りこして、二種的馬鹿の四人は、コンビニで玉子を“まとめて”買っているのが発見され、とっつかまった。こんな記事切り抜いてどこに貼るのかと心配になるでしょうが、これが収まった本は、明坂英二著「玉子を割らなければオムレツはできない2 」です。
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因みに、ドイツ南東部のザクセン州ドレスデン東方の村、クラインベルケ、に住む少数民族のソルブ族では、復活際に、ゆで玉子を打ち付け合って、食べる習慣があるそうで...。想像してごらんなさい.お互い相手のおでこなんかでカチンコと割ってからやおら、からをむいて食べる様子を...生玉子をグニャリとぶっつけて面白がる阿呆学生とのナンタル違い!。
「ゆで玉子」と言えば、私が子供の頃は、バナナもゆで玉子も、サイダーも貴重品で、これが同時に味わえるのは運動会...なんだけど、それが昼食のあとの第一回目に徒競走がしくまれていたりすると、この3種食っていたんじゃゲップが出て、とてものこと走れない...そこで涙を飲んでこの3種をガマンしていると...誰かに食べられ飲まれで、当らず仕舞...私は運動会では一度たりとも入賞しないことはなかったが、その栄光の影には子供ながらのかくの如き辛い辛い節制があったのだ。
玉子馬鹿の話はこのくらいにして...次は文化馬鹿と言うと、米軍がキュウバに置いてある、グァンタモ基地で、米兵らが、イスラム教の聖典「コーラン」を冒涜したと言う話「冒涜(ぼうとく)」とは、「神聖、尊厳なものを犯し、けがすこと」でこれ又大人のすることでないわな。どんな具合に冒涜したかと言うと、アメリア人の尋問者がコーランを踏みつけたり、これにワイセツな落書きをしたり、あげくの果てにトイレに流したり...と、つまりは馬鹿をやった訳。
イスラムの語源たる「al-Islam」は「平和であること」と物の本に書い手あるが、貴方この「コーラン3 」なるものを読んだことがある?
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私は大学を出てすぐの商社勤務の時に、井筒俊彦訳の善3巻(岩波文庫)で読んだ。これ、日本で最初の原典訳で昭和32年に出た。井筒は、イラン王室哲学研究所教授をつとめた言語学者だ。今「読んだ」と言ったが、これは机に向かって座って読んだのではなくて、通勤の満員電車の中で読んだのだ。只只ギュウギュウ詰めの無為な時間をどうにかしようと考えて、どこからでも、読めて、どこで止めてもいい本と言うことでこれを選んだ訳。
今ではすっかり忘れているが、読みながら、聖書に出て来る話に似た話が多いのには驚いた.一番おかしかったのは、マホメットの奇跡の話で、うろ覚えだから、間違っていたら、それこそ冒涜物で、ゴメンナサイと言う所だが、ナンデモ、マホメットが山に向かって言う、「山よ、私の方に近づいて来い」と山は動くかと思いきや、山は動かぬ、すると、マホメット曰く、「では、私の方が近づいて行こう」。もう一つ忘れがたいのは、「潺々(せんせん)」なる言葉。これ、「浅い水が、よどみなく流れるさま、また、その音」で、例えば、「義(ただ)しい道を踏み行う者、そう言う人たちはせんせんと河川流れる紫園に入れて、〜」なぞと使う。
あとになって知ったが、コーラン研究者城戸美和によると、この「せんせんと流れる河川」なる表現はコーランに一番多く出てくる表現だそうで、まあ、砂漠の民にとっては、このイメージは楽園にも等しいものなんだろうなとはよくわかる。
ところで、「アルハンブラ宮殿」を見て歩くと、ガイドが盛んに言うにはイスラム教徒は「統治すれども支配せず」(だったかな)だと。言わんとする事は、イスラム教徒は、異なった宗教との共存を許すが、キリスト教徒はそうではないと言う事。...らしい。さて、ブッシュの軍隊は、コーランを冒涜した。愚かなことよ!この切り抜きの行き先は勿論「コーラン」
続いては、また砂漠の民の話で...ブッシュの国務省にいるミラーなる「人身売買監視対策室長」が、ペルシャ湾岸諸国で盛んな「ラクダ競争」の少年騎士が、売買された上、奴隷状態で生活させられ、極めて危険な中でレースに駆り出されている」と非難の発表をした.これに対して、サウジアラビアのトルキ外務次官が反論して...云々。
イスラム世界では、「賭け」は禁止されているが、駿足のラクダは、王侯達のレース用に高値で売れるため、ラクダレースは各地で盛んな由、レース用ラクダが一頭売れれば、数年は暮らせるのだそうな...。で、アラブの遊牧民のベトヴィン族にとっては、このラクダレースは生活がかかっている訳で、一頭売れれば、..は鯨が一頭とれれば、七浦うるおう、てな話ににているな。さて、この騎手は競馬と一緒で、目方の軽い方がいいから、10才以上の規定を無視して、6才の子供も走っていると言うから、オドロキだが、人身売買の真意はいずれ片がつくとして、いつも呆れるのは、米国側の言い種。 自分の国の人種差別や人権無視を棚に上げて、他国を非難する、このゴウマンさ。我が身をかえりみて物言えと言いたくなるね。このゴウマンさも一種の馬鹿だ。で、この切り抜きは「ラクダの文化誌4 」に。
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さて、馬鹿づくしで来たが、最後は一寸違う話。 ルノワールの「花かごを持つ女」「婦人習作』2点組(1895年作)が、6月初旬3億14万円で売れた.国内での過去最高は岸田劉生の「毛糸肩掛けせる麗子」で3億64万だ。
何だか知れないが、記録が破られずによかった、嬉しいと思うのは、「ニッポンチャチャ」みたいで、これも一種の馬鹿だ..と自覚するね。当の娘の本をどうぞ!! 「父岸田劉生5 」
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