`10.1.3(日)寄稿
私が室工大勤務の頃の話だから、もう14,5年前の事になろうか,福井大学から中国人の留学生が流れて来た.流れて来たとしか思えなかったのは,この男「気功」をやるとの触れ込みで,おまけに墨絵を描く,,,が,,その墨絵たるや、墨をたらして、にじんで広がっていくその様を観る側が、これは何を描いているのか、と決めればいいという、まあー一種の連想画とも言うべきもので、私は聞いていて「ロールシャッハーテスト」のインチキ臭ささを連想したものだ。
因みに「ロールシャッハ―テスト」とは、スイスの精神科医ロールシャッハ考案の心理テストで、インクの染みが何に見えるか、と言う反応で、その人の精神の秘められたコンプレックスやら性格を判断しようとするものだ。
この詐欺師めいた男に、マンパチこきの非常勤講師が接近し、2人で日鋼病院に出かけた。マンパチの知り合いで末期ガンの男に「気功」をかけるためだ。
結果は寝たきりま病人が途端に元気になって、この2人を病院の玄関まで送って来た由。,,,との話を得々としゃべるマンパチこきに私は、その頃新聞に出た群馬大学の話をした。それは同大学の理学部での実験の話で,,,,無菌の水と有菌の水が入ったフラスコを並べ,有菌の方を「気功」によって無菌にするという実験だったが結果は無菌にならなかったと言うものー当たり前だ。ー
話を聞いてマンパチは黙り込んだが,こうした手合いは今もいるものと見えて,新聞によると,「水からの伝言」なる写真集が売れている由.これ,何を説いているかと思ったら,「ありがとう」と話しかけられた水は,凍ると美しい氷の結晶となるが「馬鹿タレ」などと罵声を浴びせられると、その結晶は不揃いの崩れたものとなる云々。
ハハア、これは前にも聞いた事がある。「ありがとう」といらざる藻に覆われた水溜まりに声をかけると、水の汚れの原因たる藻が消えると言う奴だ。これ、本当なら,例えば「エチゼンクラゲ」に向かってやってもられんかね。淡水には効くけど、海水じゃ無理と言われるかね。
この「水からの伝言」、売れているだけなら馬鹿もいるもんだ、位で済みそうだが、ナント、学校で「道徳」の授業の教材に使っているところがある、と言うのだからオッソロシイ!!
大体が、最近の脳科学者、人間は右脳型と左脳型に分かれるとか、脳は10%しか使われていないとか、嘘か本当かすこしマンパチ型が多すぎやしないか.型で言うなら、脳の分類で”脱税型”と言う新種も加えてほしいよマッタク!!。
話し変えるが、4年前だったか、私は本屋の全道大会での講演を頼まれて、札幌でやった。そこで私が言ったのは「巷に溢れている駄本を、書く奴も書く奴!出して売る奴も売る奴!、それを買って読む奴も読む奴」と3者揃っている。つまり、書く、出す、読むの3者が読書文化をダメにしている。いい加減にしてくれと言うことだった。その証拠に陸続として倒産する街の本屋を尻目に、我が世の春めいた顔(でもないか)の大型書店に言ってごらんなさい.入り口に大量に平積みされた、あの脅迫型の細木(あれ、太木が正しいんじゃないのかね)の本やら,メタボが和服を着るとこうなる型のナントカの本云々。どうして,悩める,そのうえ金もない君や貴方が、あのインチキ共の馬鹿本を買って、かくも、あの連中を肥えふとらせなきゃなんないの???わかんないなあ。
わかんない...と言えば,出口宗和「読めそうで読めない間違いやすい漢字」が100万部をこえて売れていると言う。どうしてちゃんとした漢和辞典を1冊買わないのだろう。
そう言えば,経済が専門らしき独協大学の先生にしてタレントの森永ナニガシの「年収300万円で暮らせる方法」(だったか、一寸不正確のような気がする)が,これ又30,万部(だか)売れた由。
食うや食わずの人間が,年収300万円では絶対にないこの男に「モウケ」させる気が理解出来ぬ。「KY用語辞典」なるものも売れていると言う。とにもかくにも,出版各社が自転車操業のために出す,出さずもがの本を、買わずものがの貧乏人が買って貧乏し、読まずもがなの本を読んで、馬鹿の度を強めているのだから、悪循環と言うもので、業者も読者も共に自転車操業と言う訳だ。
香山リカの「しがみつかない生き方」も40万部売れた由。「しがみつかぬ」を説きながら、大いに「しがみつかせて」いる訳だ。,,,と、ここまで書いて思い出したのが加島祥造だ。加島祥造(大正12年・1923年生まれ)の「求めない」はなんと43万部も売れた。「求めない―すると時はゆっくり流れはじめる」とか『求めないーすると楽な呼吸になる」とか言った、私にはどこかしら洩れているような気がする言葉が続く詩集(?)らしい。
私が切り抜いた新聞記事には、いずれもアルプスの山々を遠く望むと言う部屋、長野県南部の伊那谷に住むと言う加島が、作務衣のような着物姿で、広い庭につき出した板敷き(ベランダ?)の上に敷いた蒲材らしき座布団に座っている姿が写っている。私には、この脱俗めいた姿がどうも腑に落ちぬ。
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「怒りの葡萄3 」
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「倒影集4」私はこの英文学者の翻訳本を何冊も持っていて、どっちの業績には何ら異をはさむ気はないが、どうも、この悟りきった様な姿には違和感をしか感ぜぬ、そしてその「求めない」と言う「せりふ」にも。と言うのも,この人60歳頃、2児と妻をおいて16歳年下の女に恋して家出したものの2年後には逃げられ、65歳にして1人ぐらし。その頃の日誌に「人生の中から惨めさを消すには、人に求めないことだ」と書いた人で、そのくせ又知る人ぞ知る多情の脂気った生臭い人なのだ。2008年のインタビューで「壮年期はうろうろしていた」と語るのは、そう言う事情があるからだ。
私が思うに、「求めない」ではなくて、全ての面で「求めることが出来なくなった」人間が「求めない」と説くのは、「悟り」ではなく、「諦め」だろうと言うこと。「諦めた」人間の言葉にのるてはないて。
人間「求めなくちゃだめ」なんじゃないの!ましてや、いい若いもんは。諦めた人は御託宣述べず、枯れるなら一人で枯れてくれ!。