`10.5月30日寄稿
図書館だより「ひまわり」の2010年5月・NO.112号、即ち前号で、「晴読雨読」を担当している久保さんが、魔女のことを書いていて、「ところで、どうして『魔女』は絨毯(じゅうたん)ではなく、箒(ほうき)を跨いで空をとぶのだろうか?山下先生教えて!!」と書いている。絨毯に乗るのは、確かアリババであるし、又魔女も箒のみに跨がるのではない、棒にもまたがれば、豚にも乗る。...しかし、これでは答えにならぬから、私は我が家の3つある書庫の中、テーマに沿って五十音順に本を並べてある第三の書庫にはいって、「ま」の棚の前に立った。五十音順と言う事は、「ま」の場合、例えば先ず「枕」に関する本が並び、次に「チチン・プイプイは何か?」と言ったことを論じた「呪い(まじない)」の本があり、次に「松」「松茸」の本があり、「マテオ・リッチ」の本があり、「窓」の本があり、...と来て、最後に「饅頭(まんじゅう)」などがあって、「み」の項に移って「味噌」の本が並び始める。と言う具合だ。
で、魔女の本は、計45冊あった。と言っても、「魔女」なる字のつく本であって、これに魔女狩りに通ずる「異端審問」の本などを加えれば、数はもっと増すだろう。
私は高二の時に、フランス文学者・渡辺一夫によって、エラスムスなるオランダは、ロッテルダムの人文主義者を知って以来、この「異端審問」に多大の関心を持ち続けて来た。私流に言えば人は何故、他人の自由を束縛する挙に出るのか?と言う問題だ。「魔女狩りと悪魔学1 」
[tmkm-amazon]4409510436[/tmkm-amazon]
エラスムスはユダヤ人憎悪に凝り固まった狭量極わまる宗教者・マルチン・ルターと異なって、「寛容」の精神を説き続けた人だった。まあ、エラスムスはともかく、「魔女」なるものは、人間の無知と偏見、それからくる恐怖が生み出した「妄想」の産物であって...その「あげく」の一つが「箒」にまたがる姿のおぞましい魔女というイメージだ。
「魔女現象2 」
[tmkm-amazon]4560028737[/tmkm-amazon]
ここまで書いて私は、ふとフランス文学者・澁澤龍彦を思い出した。あの「サド」の訳者だ。と言うのは、昔私が読んだ魔女の本で、一番好きな本となったクルト・バッシュビッツの「魔女と魔女裁判3 」を読み終えて時に思ったことは、バッシュビッツの対極にあるのが澁澤だと言うことだった。どう言う意味か?と言うと、バッシュビッツが「迷妄」=よからぬものとして退ける「本やら」「事柄』(この中にはベラドンナと言った薬草?なども含めて)が、澁澤は大好きなんだと言うことだ。
[tmkm-amazon]4588020269[/tmkm-amazon]
さて、魔女の本がいくらあったとて、魔女は何故「箒」にまたがるかを即答してくれるような本は、つまりおあつらえの本は仲々あるものではない。「呪術4 」
[tmkm-amazon]4480011285[/tmkm-amazon]
だから、ここには索引や目次に「箒」とか「空中旅行」とか言う言葉が出て来るものの中から4冊出した。そして、その中で、日本の事柄を含めて、久保さんの問いに一番明瞭に答えているかに見える「大和岩雄」の論を引いておく。うまくまとめられるかどうか。「魔女はなぜ人を喰うか5 」
[tmkm-amazon]4479750347[/tmkm-amazon]
イ)「古語拾遺」に豊玉姫の海辺での出産の場面があり、この時、辺りにいた蟹を掃く。脱皮することで生命力の象徴となる蟹を掃き集めた箒は、つまり「産神(うぶがみ)」の依り代であるが、その箒が今度は死の場面にも登場する。
ロ)記・紀に天若日彦(あめのわかひこ)が死んだ殯(もがり)=死体を棺に納めてしばらく置く儀式)の場面に、彼岸に行く道を掃き清める役の人が箒持ちとして、参加とある。
ハ)柳田国男の「民俗学事典」に「安産の呪いに箒で産婦の腹を撫でる』とあって、撫でる=掃くだが、これは、「死霊」を掃いて(排除して)、「生霊」を掃き集める(取り込む)と言う意味だ。かくして「箒」は 生と死の両義性(二つの意味)を持つ。
ニ)我が国の高砂の尉(じょう=老人の男)と姥(うば=老人の女)、つまり、爺と婆は箒を持った姿で描かれるが、つまりこちら側にいる独身の男女は、この箒=境界を飛び越して向かい側に行くことで夫婦になる。即ち、ここでも、異なる二つ=両義を一つにすることが箒なのだ、
さて、ドイツ語で魔女は「Hexe」と言うが、これは「垣を越える女」と言う意味で、この「垣」とは又、内と外、生と死の境界だ。ところでキリスト教では、人間は行きている間は垣の内=境界のこちら側にいて、死ぬと垣の外、つまり境界の向こうに行き、戻っては来れぬ。戻って来れる人、復活して来れる人は、神の子イエスだけだ。しかし、魔女(hexe)は「垣を越える女」であるからして、内と外、生と死の境を行ったり来たり出来る訳で、となると垣と同じく境界をあらわす箒に乗るのは当然だ。
と言う訳で、ヨーロッパの魔女も、アメリカインディアン達が話す魔女も、わが国での魔女たる山姥(やまんば)も鬼女も、この世とあの世、生と死の境界を自由に飛び越えるんであり、この時、生を掃き集め死を掃き散らす能力を持つ「箒」に乗ることになる。
因みに、広辞苑には「箒神=出産の神、掃き神、産神(うぶがみ)」と出ている。もう一つ因みに、魔女の絵は沢山あるが、一枚選べと言われれば、やはりゴヤの「空飛ぶ魔女」と言うことになろうか。2人の魔女がはるか下界を見下ろしつつ、暗夜をサバト=夜宴に加わるべく飛んで行く。右上にはミミズクの姿が一羽(ふくろう・みみずく愛好家ー但し学問・芸術の象徴としてのー私としては、ここの所がいささか気に喰わぬが)。
偏見と無知とおそらくは恐怖が生み出した魔女は、ドイツだけで、ー説に1500年〜1749年の間に、3万人以上も火焙りにされた。中にちょっぴり魔男も混じっていた由。
魔女はつまる所、第三者の妄想の産物だが、己の妄想で変なのもいるな。例えば、劣等感から生ずる焼き餅が高じて、それ故に又、人より優位に立ちたいとの願望がはげしく、何が何でも人を支配したい欲望から、嘘をつきまくってでも相手を貶めなきゃすまぬタイプの女性がいるが、これはまあ魔女と言うよりは、悪女と行った部類になるんだろうな。
久保さんこれで(よろしかったでしょうか)/このカッコ内の言い方、文法的に正しいと言う学者がいる???