2013.02寄稿
昨年12月のある日、幼馴染みの泰女が、田澤さんの作品が市民美術館の「女流書道展」に出ているよ、と知らせて来たので一緒に観に行った。号が「綾雨」の田澤早智子女は「ふくろう文庫・ワンコイン美術講座」のポスターに、いつも墨痕淋漓(ぼっこんりんり)のみごとな文字を書いてくれる人だ。
3年前(だったか)の文化の日(だったか)、私は白老の公民官で小学校の校長を中心とした聴き手に講演をしたが、丁度その時、一階で書道展が開かれていて、私の顔を見つけた田澤さんの案内で、ぐるっと観て歩いたことがある。その時田澤さんは3点出していて、①は孟浩然(もうこうねん)の「春暁(しゅんぎよう)=例の-春眠暁を覚えず-」②は乙瑛碑(いつえいひ)、③は与謝野晶子のナントカだった(筈)。そんなことを思い出しながら、私は泰女と田澤さんの作品の前に立って、「オー今度は「詩経1 」か、やるねえ」と声に出した。それは 豊年多黍多稲 亦有高廩 萬億及稀 為酒為醴 烝界祖妣
以洽百禮 降福孔皆 で、題は「豊年」、出展は詩経の「周頌」。
「彼女の筆圧は本当に強いの。上手よねえ」と、自身も「毎日書道展」入選経験者の泰女が言い、更にアンダーラインの箇所を指して、「ここはおじちゃん(私のこと)向きだわ」と笑う。
ここは「酒を為(つく)り禮を為り」で、意味は、「酒や甘酒を作って」
詩全体は、「豊年満作、きびも稲も百万もの倉に満ちている。それで酒を作って御先祖様に飲んでもらえば、きっと幸せを呉れるでしょう」と言った所だ。
泰女のひやかしに笑いながら、私は田澤さんの作品に大いに感心して出て来た。ところで、この「詩経」、今更言うまでもないことながら...先ず、中国の最古の詩編。江戸時代、というよりも王朝の昔から、我が国で尊重された、例の「四書五経」の中の一つ。因みに他の四経は「書経」「易経」「礼記」「春秋」。
「詩経」の中味は、①地方の民謡とも言うべき「風ふう」、②朝廷の雅楽のようなもの「雅」、③祭祀に用いられる寿ぎ(ことほぎ)に類する「頌」の3つに分けられる。田澤さんが使ったのは、この③の中の「周頌」。「詩経」に現存する詩の数は305篇で、昔3,000篇もあったのを、この数にまとめたのは孔子だと、俗に言う。
そして、当の孔子がこの詩集の特色を一言にして言ったのが、有名にも有名な「詩三百、一言にしてこれを蔽(おお)えば、曰く、思い邪(よこしま)」無し。即ち「考えに邪念がない」と。田澤さんも泰女もこのタイプだ。
すばらしフランス映画を観た。「キリマンジャロの雪」(これ主題歌のタイトルで、ヘミングウエイの小説にあらず)。マルセイユが舞台。会社のリストラで組合委員長のミシェルも職を失う。仲間が長年御苦労さん、とカンパした金でアフリカ旅行のチケットを手配してくれた...は良かったが、貯めた金もろとも強盗にやられてしまう。犯人は同じリストラ組の新米労働者とわかり、その奴の家を訪ねると??。
ミシェル夫妻はこの後、思いもよらぬ行動をとり始める、そのエピローグのすばらしいこと!!。
ホラーだ、サバイバルだ、宇宙戦争だと、おぞましいか、ドンパチかの、観るだけ時間の無駄と言う映画を作り続けている連中に、この映画を見せてやりたい。美男美女一切出ないが、「思い邪まなし」の人々が溢れている映画だ。最後にこの作品はビクトル・ユゴーの作品にヒントを得て出来た、とあったので、何だろうとユゴーの作品に当ろうとしたら、あった筈の「ユゴー詩集」がない。同じく新潮社から出た「海に働く人々」(上下)と、「九十三年」(上下)はあるのに、どこに消えたのやら。只、「ユゴー詩集2 」の訳者、辻昶(あきら)の文章にこれかなあ?と思われる詩があった。「あの子達をうちに入れてやろうよ。うちの子といっしょに育てよう/〜これで決まった。さあ、あの子達をつれてこいよ。どうしたんだい?いやなのか?.../「ほら」とジャニーはベッドのカーテンを開けて言った。「もう、ここにいるのよ!」。
この映画観て本当に幸せになった。と言う訳で、「ユゴー詩集」思い出したが。代わりに新作の「レ・ミゼラブル」も近々くるらしいから、「レ・ミゼラブル百六景3 」を出しておく。
序でに書くと、私は昔「ユゴー博物館」に行ったことがある。昔は「王様広場』と呼ばれた、今はヴォージュ広場』(マレー区)にある三階建ての堂々たる建物で、ユゴーが1833〜1848年まで住んだ所だ。受付で「学生か?」と訊かれて「否、社会人」と答えて「何故?」と訊くと「学生割引きがあるから」との事だった。懐かしい思い出だ。そうだ、事の序でにこの頃余見かけないユゴーの本をもう一点出しておこう。ユゴーが16歳で書いた文字通りの処女作「ビュグ=ジャルガルの闘い4 」だ。サント・ドミンゴの奴隷解放の話だ。ユゴーの人道主義が全編にあふれている。
2月7日の朝刊を開いて呆れた。「ウヒャー、まだやってたのか!」。何に驚き呆れたかというと、「パリジェンヌ、ズボンを解禁』とて、1800年11月17日施行の条例を200年振りに撤廃したと言うのだ。その条例とは、女性が男性同様にズボンをはきたければ、地元の警察の許可が必要というもの。只この200年間で2度改訂されたものがあって、自転車に乗る場合が1892年、乗馬の時には1900年に「はいてもよし」とされた。呆れたけれども、ナニシロ、男装女流作家ジョルジュ・サンドがズボンはいて出ただけで、ケンケンゴウゴウとなった国だもんな。
男女の服装が、それらしく別れて来たのは14世紀頃だそうだが、19世紀後半、アメリア・ブルーマーの発案のいわゆるブルマーが出来て、私の高校時代、体育の時間、女性徒は皆ブルマーだった。あれ、ブルマ−婦人が日本の袴からヒントを得た由。
フランス革命の結果、ズボンが出現したフランスで、その可否をめぐっての言論が出ている「おしゃれの社会史5 」を久しぶりに出してみて、「それにしてもなあ」と今のフランスに再度呆れた。因みに、私は「ズボン」を「パンツ」と言うのが好かん。
昔、旅行中、5,6歳の男児が2人で謎かけをやっていた。「○○ちゃん、パンが2つで何だ???」。答えは「パンツーって言うんだよ」だった。