。2014.11.7寄稿
オーストラリア。イギリス合作の「レイルウエイ、運命の旅路」を観た。第二次大戦中、タイとビルマを結ぶ泰緬(たいめん)鉄道を作ろうとする日本軍はイギリス軍捕虜を暴力をもって酷使した。緬は明代以降中国でのビルマ=改ミャンマーの呼称、緬旬(めんでん)のこと捕虜の生き残りコリン・ファースが暴力憲兵の通訳だった真田広之の生存を知って復習するべく出かけるが、、、とくれば、おわかりのようにこれ、「戦場にかける橋」の後日談
1957年のこの名作のシナリオを書いたのはカールフォアマン共著はマイケル・ウイルソンで、この人後のこれ叉名画「友情ある説得」や「アラビアのローレンス」を書いた人。この2人の共通点はアメリカ史上に残る悪名政治家ジョセフ・マッカーシーにいじめられたことマッカーシーの赤狩りで狩られた人。
赤狩りとは何かとなれば、第二次大戦後の米ソの冷戦を利用して、独信的な反共主義者のマッカーシーが自分の気に食わぬ人間をおとしめるべく「非米(つまりアメリカに不利なことをする連中をあぶりだす)活動委員会」を作って政界のみならず国中を牛耳ろうとした事件。序でに言うと、国家斉唱の口パク検査や入れ墨の有無の検査で公務員をおどかした大阪の橋本はこのジョセフ・マッカーシーと同じだと指摘したのはご存じ、佐藤優で、この比較当たっている。それはともかく、マッカーシーは映画界にも「赤狩り」の手を伸ばし、密告者を多量に使って「アカ」と決めつけて迫害し続けた。このとき「FBI」のスパイとして俳優組合の友人達を「アカ」として売ったのが後の大統領レーガン。自動車会社の重役でテレビの番組をも持つ金持ちの娘でナンシー・デーヴィスなる三文役者と一緒になるべく、賢夫人のジェーン・ワイマンを袖にした大根役者。もちろんこの時、皆が皆レーガン同様卑劣になったわけではなく、当初は「赤狩り」の対象となっている俳優達を救うべく多勢の人が立ち上がった。その中の一人に、ハンフリー・ボガードがいたが、ソコルスキーなるコラムニストから貴方の奥様のローレン・バコールはうら若き美人だし、あなたも人気俳優です。だから貴方は赤の連中に利用されているだけとさとされ?おどかされ?この抗議運動の中心人物だったボガードは自分の行動の誤りを大々的に認める以外に映画界で生き残る道はないことを悟り、であっけなくマッカーシーに降参する。スクリーンの男だては違うが、、、こんな話を何故思いだしたかとなれば、うら若き美人のローレン・バコールが過ぐる8月12日89歳で亡くなったからで、私は久しぶりに彼女の自伝「私一人1」を出して今眺めているところだ。先述した「赤狩り事件」もシナトラとの恋も入っている600ページ程の大冊だ。この本1984年刊。PRのため初来日して紀伊國屋でサイン会をやったときのサイン入り本だ。
「赤狩り」で思い出したが、マッカーシーがいじめた一人、ピート・シーガーが今年1月94歳で死んだ。1965年米軍の北ベトナム爆撃が始まった時の抗議運動で世界中で歌われた「花はどこへ行った」の作詞作曲家とは言わおもがないこと。私はこの歌に変わった思い出がある。昭和40年代後半椎間板ヘルニアで登別の厚生年金病院に入った時のこと、手術はことわって引っ張って直すことを望んだため、文字通り24時間腰に2本重りをつけられて仰向けになったままの日々だったがつけっぱなしのテレビの6人部屋にある日自衛隊の少年兵が入って来てこれが日がな一日、自衛隊らしき軍歌調ものを次から次と口ずさむ。腹が立つが使用がない。と少年を追っかけるように大学生が来て、ギター持ち、やはり日がな一日歌うのが井上陽水。古代の歌垣ならともかく、この2人の雑音に悩まされたが、唯一ゆるせたのがこのギターが消灯時間にやる爪はじくシーガーの「花はどこえ行った。」この歌シーガーが」ミハエルヨーヨーの「静かなドン」の中にあったウクライナの三行詩「花はどこにある/、娘達がそれを摘んだ/娘達はどこにいる/彼らはみんな夫をもった/男達はどこにいる/彼らは軍隊にはいった」にインスピレーションを受けたものという。この長大な小説、私は高校生の時に読んだがこの詩は覚えていない。マッカーシーの査問会でいじめられたシーガーは「私はバンジョー弾きとして暮らしを立てています。」と名乗ったあと「赤の仲間の名を挙げろ」etcと迫ってくる悪辣名連中に「交友関係、私の哲学的、宗教的な信条或いは政治的信念、叉選挙でどこへ入れたとかそう言った個人邸な問題について〜」「答えるつもりはありません」と)つっぱねている。時過ぎてマッカーシーとそれと組んだニクソンはアメリカ史の汚点として残り、シーガーは人間の良心の具現として名を残す。当たり前の話だが。…で私が書斎から出してきたのは「歌わずにはいられない2」D・Kダナウエイの「p・シーガー物語」
来年1月の第42回「ふくろう文庫美術講座」は「セザンヌとゾラ3) 」と決めた、そのきっかけは今年7月中旬「セザンヌとゾラ決裂せず」の記事が出たからで、これどうゆうことかと言うと、セザンヌとゾラは南仏エクスアンプロバンスの中学校で同級生。パリに出て亜しぇっと書店につとめた後、ゾラは作家となり〜で、1886年セザンヌをモデルとする(とされる)小説「制作」(岩波書店で上下)を書くガ、中で主人公のクロードランチェが精進かなわず未完の裸婦像を前に首を吊って果てる。この結末で気分を害したセザンヌは以後ゾラと絶交し...となるのだが、今回決裂後のセザンヌがゾラに当てた手紙が発見されたとて「決裂せず」の記事になった訳。読んで何を今更ーと思ったのは、日本の研究か新見公子が2000年にブリュッケから出した「セザンヌとゾラーその芸術と友情」で一人の女を巡って2人の関係に一時ギクシャクしたが、二人の友情は生涯続いていたと実証しているからでその論が今回補強されたというか、その証拠が出て来たということだろうそれはともかく、「印象派」を擁護したゾラと後記印象派の人間像を語ってみよう。
仕事帰りの車の中で川内原発の住民避難計画について国会論戦を聞く。政府答弁に対して翌日の新聞には環境経済研究所の上岡直見が、まあ一言で言えば「紙上計画で全く役立たず」としている。聞いて、読んで、太平洋戦争時、空襲がくると地下鉄の駅ホームや車内の人間は地上へ追い出され(ロンドンでは逆に地下鉄内に避難)爆弾が落ちてきたら防空壕にいてはダメ、消火ににハゲメとの法案「検証防空法4」を思い出した。川内では、5km圏内の住民が30km圏外に出るまで、30km内の住民は逃げてはダメとされている。どこか似てないか。