2020.5.10寄稿
シンガポールのブラックボックスリサーチと、フランスのトルーナなる団体が合同で、世界23カ国を対象に今度のコロナ騒動の対応についての各国の指導者をどう評価するか、との比較調査で、日本が最下位になったと5月に入って発表した。
この調査、チェックポイントは4点で、それは政治、経済、地域社会、メディア。日に2万件と国会で豪語するくせに一向にふえぬPCR検査や446億かけてたった2枚のマスクを国民に配る馬鹿らしさに気づかぬ安倍の能天気な姿をみると4つのチェックで最下位になっても「そりゃそうだろうな」と思うだけで何の驚きもない。ブラックボックスのトップ、デービット・ブラックの結論は「安倍は間違いなくコロナウイルスのストレステスト(特別検査)で落第した」という皮肉なものだが、これを聞いても「全くその通り」と思うだけで国民として反論する気も安倍をかばう気も全然起こらない。
安倍が危機管理が出来ないのはどうしてなのか。その辺を神戸女子学院大学の名誉教授でフランス現代思想の専門の内田樹が言うのを私流にまとめると、「新自由主義」の立場にいる安倍は全部金で量るので、その価値観からすると(ここからカッコ内は内田の言葉)「格付け上位者に資源を集中し格付け下位者は切り捨てる。路頭に迷うのは当人の自己責任だという考え方です。」この世の中全てが金が物言うとの考えの安倍は「日米同盟に慣れすぎてしまって自分で物を考えることができなくなっている。全てアメリカの指示に従ってきたそのくせが抜けなくて「〜コロナ感染抑止のために効果的な措置を取らず、自治体と市民に責任を丸投げしている。」云々
全て金の見方では、疫病がない時の病院や医者は無駄に見えるから安倍は今、約440の公立・公的病院の再編統合と13万床病床削減をしようとしている。保健所にいたっては1990年代850カ所あったのは今や472カ所。その保健所が今PCR検査のいそがしさで崩壊しそうになっているのは読者御存知の通り・・・
と切りがないのでこの辺で止めて、今回は安倍にキチンと物言う内田の本を一冊紹介しよう。沢山ある中から「生き延びつための七講」なる副題の「最終講義1 」をどうぞ。講演を集めたものでわかりやすい。
トランプが又妙なことを言い出している。「コロナは中国湖北省武漢の研究所が発生源だ」と言うのだ。これに対し5月6日になってWHOは根拠なしと反論したが、トランプのこ事だからこの後も「習近平は無能だ」だの「コロナの弁償をさせよう」だのとこりもしない。しかし発生源がどうのこうと言い出しては収まりがつかない。土台1918−1920で4800万人が死んだとされるスペイン風なるもの、名前はスペインだがこれ震源地はアメリカだぞ。これで思い出すのは「日本住血吸虫病」だこの感染症、かつては「日本軍が中国やフィリピンに持ち込んだ」とされた。まあ、トランプみたいな人間はどこにもいるという話だが、この感染症、上に「日本」と付いているからとて何も日本に特有の、まして日本だけで発生する病気ではない。これ、日本、中国。フィリピンに発生し殊に1950年代初頭中国で発生して患者数3000万人,中国史上最大の感染症となった。しかし、今日本では根絶しているこの感染症に何故、日本が付くのか?この病気は寄生虫で起こるが、まず皮膚炎になり腹と血筋が膨れ上がり、吐血して死ぬ。この寄生虫の宿主はオンコメラニアという巻貝だ。日本では九州の筑後川。広島の片山地方(ここでは片山貝と呼ぶ)山梨の甲府などが発生地。この寄生虫が何故ヒトへ感染するのか経路を発見したのは岡山大の桂田富士郎(1904)、そして住血吸虫を発見したのは東大の藤波鑑(1904)その中間宿主がオンコメラニアだと突き止めたのは九州大の宮入慶之助(1913)、それで今、日本ではオンコメラニアを宮入貝という。そして、寄生虫病は発見者の名前をつけるのが普通だから、本来は桂田住血級とやればよかったのが、桂田が日本人の名誉にかけて「日本」と名付けた訳.これが後の誤解の元だ。因みに日本住血吸虫病は西アジア・アフリカ・南アメリカ・カリブ海流域にもある。つまり、事感染症に関しては「犯人探し」をしている閑(閑)があるなら防ぐ対策を当てるのが先という事.習近平をけなしている間のアメリカ感染拡大をトランプはどう説明するのか。因みに中国は感染症と闘うについて近代日本を師とした、つまり日本に学んだ。という訳で飯島渉の「感染症の中国史2 」を自粛の間に読んでみては如何!
今年1月初め、インドはニューデリーの国立ネール大学がヒンズー過激派に襲撃されて学生、教員ら30人が負傷した。しかし新聞を読んでいればこれは特別な事件ではなくて日常茶飯事だと思えてくる。何しろ集団レイプ事件なんてのが絶えずある。その原因はインドの根強い身分制度にある。その差別制度を扱ったインド映画「あなたの名前を呼べたら」を観た。色の白い(つまりはアーリア人=高等な)建築会社の後取り息子とたった19歳で夫に死なれた色の黒い(つまりは下等な)メイドがその気になって「旦那様」と呼ばずに息子の名前を呼んだらそれこそ殺されかねない身分制度。これはどうして発生して何故続くのか。この映画を観た後、私は野間宏と沖浦和光の「アジアの聖と賊3」を読み直したヒンズー教徒が尊ぶ「マヌ法典」なるものについて沖浦は「この法典にはおそらく今日の差別と言われているものの全て、すなわち女性差別から身障者差別からありとあらゆるものがぶち込まれている。それら全部穢れとして遠ざけることによって、神の清浄が保持され社会的秩序が安定するという〜」という。その全ては色の白いアーリア人種生と血統を守る立場だから、色の黒い先住民たるドラビタ族などはたまったものではない。ガンジーもネールも是正できなかったこのカースト制度、その非人間的国の政治家が核兵器保持なんて馬鹿なことに励むのだから不可解なんてものではない。つくづく考え込まされる。
「あいちトレンナーレ」事件については今まで何度か書いてきたが、そのまとめ的ないい本が出た。紙屋降雪「不快な表現をやめさせたい!?4 」がそれ。行政が民間の例えば文化団体の作品発表に口を挟むことを何故してはいけないのか。名古屋の河村市長の行動は(志楽らくは支持したが)を何故大村知事は認めなかったのか。九州大学副学長の講演はことわっておきながら百田尚樹の講演会は可とした福岡市長の判断はどこが間違っていたのかetcと実に分かりやすい。皆,これ位のバランス感覚を持ってりや世の中平和だろうがね!!