第428回 北方少数民族のドラマ、 サハロフ賞とサハロフ博士

2021.10.27寄稿

「切り抜き、こんな事たぶん御存知と思いますが、送ります」と大学時代の同級生純子さんから手紙が届いた。

私のアルバムに純子さんが、場所は分からぬが(武蔵野か?)郊外で画架を立てて写生をしている写真があるが、彼女は、今も京都から出ている雑誌「APIED、アピエ」に洒落たイラストを発表している。そのシュールなタッチは私にフランク、パブロフの「茶色の朝1 」に絵をつけたヴィンセント・ギャロのタッチを思い出させた。これ全体主義の恐怖を描いたものだ(大月書店、2003.¥1,000)

クラスで最初彼女を見たとき、その上品な感じが、ミシェル・モルガンの雰囲気に似ているなとびっくりしたものだ。ミシェル・モルガンは言うまでもなく、ジャン・ギャバンと組んだ「霧の波止場」で世界中を魅了したフランスの大女優だ。

さて、純子さんが送ってくれた切り抜きは、モスクワの「文学、芸術文書館で「破戒」をロシア語に翻訳したフェリドマン宛の島崎藤村の自筆の手紙が残っていた事が分かったと言うもの。詳細はいずれまた取り上げるとして、この「切り抜き」で思い出した2つの事を書いておこう。

一つは、私は昔このモスクワの「文学、芸術文書館」を訪れたことがある。丁度ブレジネフの時代で、入ると見学者は私と我妻さんの2人だけ、順繰りに部屋を辿って日本関係の部屋に入って驚いたのは、並べてある岩波文庫が,どうした訳か全部逆さま、つまり、背文字が上下あべこべになっていた事だ。誰かのイタズラかなと思ったが、他に人はおらずーで、私はこれを皆直してきた。話が学術的でなくて読者に悪いが、この妙な思い出の後に思い出したのは、このあとチェーホフの旧宅行った事。すごく素敵な間取りの家で、将来家を建てるならこれそっくりでいいなと思った事だったが、無論望みは叶わず。このあとトレチャコフ美術館に行くと長蛇の列で、こりゃ日が暮れてしまうわと、警備の人に「旅行中の者だが」と掛け合うと、優先して入れてくれた事。入り口だったか、出口だったかにブレジネフの畳15〜20枚はありそうな巨大な半身像がかかっていて呆れたことetc.

次に二つ目の思い出は大学生のときに一人で木曽馬籠の島崎藤村の実家、つまり木曽の本陣を訪ねた事だ。私が着いた日は、丁度藤村の息子が生家跡に「旅館」を開いた日で、私は奇しくも最初の客となった訳だが、夕食の後に、主人に呼ばれて、色々話を聞いたものだ。因みに純子さんと私は藤村が出た明治学院の後身明治学院大学英文科で学んだから、藤村は私たちの大先輩という事になる。、、、、と言う訳で、ここに藤村の本を出そうと思ったがありすぎる。それよりは色々と思い出させてくれた純子さんに感謝して、モルガンを「〜堂々たる風格と気品ある美しさで代表的な大女優」と褒める記述がある「世界映画俳優全史・女優編2 」(猪俣勝人+田丸力哉、社会思想社、現代教養文庫、1977,¥440)を出しておこう。ここまで書いて、序でに書庫から「霧の波止場」を出してきて一酌しながら観た。たまらなくいい。

まだ読んでないが津田塾大学教授の木村節子の「文芸時評」によると新潮新人賞の久栖博季(くずひろき)作「彫刻の感想」はウィルタ人3代記だそうだ。「ウィルタ」は北方少数民族の一つで「トナカイと共に生活する人」久栖は田中了著、ダーヒンニェニ・ゲンダーヌ口述「ゲンダーヌある北方少数民族のドラマ3 」を参考文献としてあげている由。それで書庫から久し振りに同書を出してきた.1978年現代史出版会刊」(¥1500)で、第32回毎日出版文化賞受賞作だ。

昔はオロッコ、今はウイルタと呼ばれる北方少数民族に生まれたゲンダースは今のサハリンの敷香(しすか)(現ポロナイスク)の「土人教育所」で日本名をつけられ、いわゆる「皇民教育」を受けて日本人にさせられた。そして太平洋戦争が始まると昭和17年に召集された。召集令状を出したのは敷香にあった陸軍の特務機関。送り込まれたのは北樺太(当時はソ連領)。ここで情報収集や謀略工作をさせられた。これがたたって、日本が負けた後はソ連軍につかまり、スパイ罪となリ、シベリアに抑留される事9年半、日本の舞鶴港に戻されたのは昭和30年。その後網走に住んだ。このゲンダーヌに対して祖国とさせられた日本はいかなる態度をとったか。呆れた事に先ず戸籍がない。その理由は戦前の樺太庁が作った原住民名簿は正式な戸籍ではないからとされて、戸籍が出来るまで4年かかった。次に召集令状を出した特務期間には招集権はなかったからとされて、すると召集されているはずはなく、従って軍人恩給は出せない。etc,

かくしてゲンダーヌ曰く「私を日本人と認めたのは、私を収容所に入れたソ連軍だけだった」と。こんなふざけた話があるだろうか。日本という国の身勝手さ、無責任ぶりは今に始まった事ではないと分かる話だ。それでもゲンダーヌは網走に住み着いて、己の民族のあれこれを伝えるべく網走川のほとりに「ジャッカ・ド・フニ」(ウイルタ語で、大切な物を納める家)なる博物館を建ててガンバッタが力尽きた。この稀有の記録、是非読んでもらいたい。

今年のノーベル平和賞はフィリピンのドゥテルテ大統領の強権ぶりを批判し続けてきたジャーナリストのマリア・レッサ(58歳)と、同様にプーチンに批判の目を向けてきたロシアのジャーナリスト、ドミトリー・ムラトフ(59歳)に与えられた。世界各地で権力にいどむジャーナリスト達が殺されている今、この授賞はジャーナリスト達を勇気づけるに違いない「平和賞」は「国家間の友好関係、軍備の削減、廃止などに貢献した人物」に与えられるのが原則で、これを思えば、昨年2月,馬鹿の安倍が、あろう事かトランプを推薦したと自ら明かしたが、ベンチャラも度が過ぎる。安倍の頭には米国追従のみがあって、日本独立のことは毛程もないのだろう。これ、歴とした「売国的思想」ではないのかね。ところで、読者はアレクセイ・ナバリヌイを覚えているだろうか。プーチン政権批判の急先鋒のナバリヌイは昨年8月20日にロシア国内線の飛行機の中で体調が急変し、西シベリアオムスクの病院に担ぎ込まれた。つまりはプーチンに毒殺されかかったわけだがこの毒薬投与の疑惑に対して、プーチンは「拙速で根拠のない非難は受け入れられない」と関与を否定したが.並みの人間なら、秘密警察上がりプーチンを信ずる者は先ずいないだろう。プーチンはナバリヌイの攻撃の手を緩めず、ナバリヌイの陣営を「過激派組織」と認定するべく動いたり、今年1月には治療を終えて帰国したナバリヌイを空港で拘束したりとやっているが、そのナバリヌイを勇気づける出来事が10月にあった。10月20日に欧州連合(EU)の議会が、「サハロフ賞」をナバリヌイに与えると発表したのだ。これ「最も暗い時代であっても真実を語る事を恐れず、無関心ではいられぬ全ての人々に贈られるもの」。まことに喜ばしい。そこで、この「サハロフ賞」の元になったサハロフの本を出そう。アンドレイ・サハロフ(1921〜1989)は、1975年のノーベル平和賞受賞者だがスターリンの独裁に反対し1980年に国内流刑になったひと(1986年名誉回復)水爆を開発した事を悔やんだ物理学者。当局はノーベル授賞賞のための出国を許さなかった。因みにサハロフの動きを「反国家的活動」として名誉、称号全てを剥奪してゴーリキ市に幽閉したのはブレジネフ、これを解除したのはゴルバチョフ。「回顧録』の手稿は実に4回も秘密警察(KGB)に盗まれ、その度にサハロフが書き直し、最後に秘密のルートで西側に持ち出された結果出版されたものだ。「サハロフは発言する4

「サハロフ回想録上下5

「サハロフ博士と共に6

今は10月27日朝刊には例の失言症の麻生が「北海道の米がうまくなったのは農家や農協のおかげでなく地球温暖化のおかげだ」とまたしても馬鹿を言っとる。そろそろ農協主導で百姓一揆を起こす時期ではないか。

 

  1. フランク、パブロフ.茶色の朝 .大月書店(2003) []
  2. 猪俣勝人+田丸力哉.世界映画俳優全史・女優編.社会思想社、現代教養文庫(1977) []
  3. 田中了著、ダーヒンニェニ・ゲンダーヌ口述.ゲンダーヌ。ある北方少数民族のドラマ.現代史出版会(1978) []
  4. サハロフ、原拓也訳.サハロフは発言する.新潮社(1975) []
  5. アンドレイ・サハロフ.サハロフ回想録上下.読売新聞社(1990) []
  6. エレーナ・G・ボンネル.サハロフ博士と共に.読売新聞社(1981) []

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