2022.3.15寄稿
朝日の「天声人語」、3月4日に感心した。ウクライナに駆り出されて戦死したロシア兵が母とやりとりしたスマホの文章が国連で紹介された事を伝えた後、「戦争で血を流さねばならぬのなら,貴方の血をどうぞ、大統領閣下」と歌ったボリス・ヴィアンの話が引用される。
ヴィアンとくれば書庫のフランス文学の棚に、全13巻の「ボリス・ヴィアン全集1」(早川書房)が並んでいる。中の9巻目が詩とジャズ批評他を収めた「ぼくはくたばりたくない」だ。その中の P117に「天声人語」子が引いた村上香佐子(かすみこ)訳のの「脱走兵」がある。全体で50行近い詩なので、「天声人語」子をまねして抜いてみる。
「”大統領閣下”お手紙を差し上げます。〜私は今令状を受け取りました。”大統領閣下”私は戦争をしたくありません。可哀想な人達を殺すために、生まれたきたからではないからです.「私は決心しました。脱走しようと、!」「私は人々に訴えます、服従を拒むんだ。戦争を拒むんだ、戦争に行ってはいけない、出征を拒むんだ」「血を流さなければいけないのなら、あなたの血をどうぞ。閣下は偽善者ですね。大統領閣下」〜
私もこの通りだと思う。だから同じ伝で、プーチンに言おう「あなたの血をどうぞ」安倍にも橋下にも、同じ事を言おう。もし安倍が負傷したら安倍の看護には桜井よしこや高市早苗にでもしてもらおう。
ところで、ボリス・ヴィアンは今読まれているのだろうか。全集の帯には「ボリス・ヴィアンは1959年に39歳の若さで死ぬまで、作家、画家、俳優、歌手、トランペット奏者など20以上もの分野で旺盛な活躍をみせた」とはあるものの、手元にある東大フランス文学会編の「フランス文学辞典」1955年刊には一行も出ていない人だ.1966年刊の「新潮世界文学小辞典」にもなしーだ。だからヴィアンについて少し説明すべきだが、この文章の目的は「戦争する時は、又したい時は、言い出しっぺが最初に行ってくれ」だから、今は省く。
同じ3月4日、赤旗の「潮流」欄には驚いた。キエフのテレビ塔にロシア軍がミサイルを撃ち込んだとは知っていたが、なんとそこは「バービィ・ヤール」の場所で、その追悼碑が建っていた所だと言うのだ。
「バービィ・ヤール」とはキエフの端れにあった、訳せば「婆谷」と言う谷間の名で、1941年9月にナチス軍がキエフに攻め入った時、ここでわずか2日で7万人のユダヤ人を銃殺して埋めた。その後2年間の占領中には数十万人が虐殺されて埋められた。繰り返すがその谷間の後にテレビ塔が出来、それが今度こわされた訳で、ゼレンスキー、ウクライナ大統領がロシアに対して「プーチンはホロコーストの犠牲者を2度殺した」と非難するのはこのためだ。
ところで、この「バービィ・ヤール事件」を世に訴えたのは詩人エウゲニー・アレクサンドロビッチ・エフトウシェンコだ。それで私は又書庫に入ってロシア文学の棚から3冊出して来た。①は草鹿外吉訳の「エフトウシェンコ詩集2 」(飯塚書店、1973、¥480)
② 草鹿外吉訳・編「エフトウシェンコの詩と時代3 」(光和堂1963¥500)③A・アナトーリ(クズネツオフ)平田恩訳「バービィ・ヤール4 」(1973年講談社¥1200)。「バービィ・ヤール事件」は1961年にエフトウシェンコが詩にするまで、政府は国民に知らせなかった.
1933年生まれのエフトウシェンコの曽祖父はシベリアに流刑されたウクライナの農民だ。エフトウシェンコは「バービィ・ヤールに記念碑はない。きり立つ崖が荒肌の墓石なのだ」と詠いだす。死体はその崖を崩して埋められた。と此処まで書いて突然、私は昔レニングラードで出会ったフィンランドの初老の夫婦を思い出した。トナカイが曳くトロイカに乗り合わせたのだが、「私たち夫婦は5カ国語を話すが、貴方達は?」と聞くので、逆に「何故5カ国も」と聞くと、奥さんが「フィンランドは19世紀にロシアに支配され続けた。だからいつでも亡命できるよう5カ国語を学んだのだ」と。今ウクライナの亡命が続いているのを知って、あの夫婦は何をしているのかなと思うところだ。エフトウシェンコもボリス・ヴィアンも読むべし!!。
2022年2月1日、石原慎太郎が89歳で死んだあとどんな感想が出るやらと、新聞を注意して見て居たが、奥歯に物が挟まったような感想の多い中で、批判的だったのは、東工大の中島岳志位と見ていたら、そこへ大学の同級生で、イラストレーターの純子さんが「東京新聞」(2月15日付け)を送ってくれた。「石原慎太郎の差別発言、今再び考える」と題した特集で、お茶の水女子大の戒能民江、立教大の明戸隆浩、肥薩大の千田有紀の3人が誰もが石原を褒めていない。ようやく、我が意を得たりだ。私は石原を公金泥棒と思っているが、それは「黒い都知事、石原慎太郎5 」を読めばよく分かるから、ここではクダクダ書かぬ。慎太郎批判を3冊あげておくので、自分で確かめてください。
「空疎な小皇帝6 」
「石原慎太郎退場せよ7 」
私に言わせれば、石原は人傷つける事しか出来ない男、息子は週刊誌に「せこい」と書かれたが、その「せこさ」は親から伝わった物だ。又石原は目をパチクリやるが、あれは内心の不安の表れで間違って男ぶっているだけの男だ。つまり、褒める所は一つもナシ。「死屍(しし)に鞭打つな」と上品に構えた論もあったが、ひとでなしの石原には無用の情けだ。
「司書独言」の前号で「FGM=女性器切除について次号で書くと予告したが、書庫が本の山で「女子割礼」明石書店の本が出せぬので、代わりに、男子の「割礼の歴史8 」と「女子割礼に」について書いた「本の話」no470(2007.5.19日付)を出しておく。読まれたし