司書独言(97)

`09.9月寄稿

○月○日 大東亜戦争の時、私は国民学校3年生だったが、父親の判断で洞爺湖温泉に疎開した。学童疎開は室蘭ではなかった筈だから、疎開したのは我等兄弟だけだった。場所は万世閣ホテルの道を挟んだ略略真ん前。「飯野さん」と言う父の友人の小料理屋(だったと思うが)の裏の離れだった。

朝起きると日本手拭を持ち、道を横切って湖畔に下りて行き、しゃがんでヒタヒタと打ち寄せる小波を手拭にすくって顔を洗う。そのあと、その手拭を両手に引っ張るように広げて蛯(えび)をすくう。蛯?左様、ザクザクと言うかんじで、蛯がさざなみに乗ってくるから、それをすくい、それは確かツクダニにして食べた筈。

私はこの蛯、長いこと名前が分からずにいたのだが、先年ウトナイ湖の資料館で、これが、「ミヤマスカシエビ」だとわかった。この蛯を食べながら私は2つ年上の姉と共に、今は「湖の図書館』の所にあった学校に通ったが、時が時だけに、授業は全くなく、毎日毎日、イタドリの葉っぱを集めることで時が過ぎた。これは兵隊の煙草となると言う話だった。

○月○日 さて、毎日見上げていた万世閣だが、そこで妙な事件が起きた。料理人らが、只働きはイヤだ」とて労働組合を結成したそうな。話の始りは2008年7月の例のG8サミット。問題の「只働き」云々とは、社長側が残業代を全く払わないと言うもので、元料理人らは15人が不払い残業代+損害賠償=1億3千万の支払を求めて、札幌地裁に提訴した云々。聞くだに不埒な話だが、その前にもう一つおかしな話があって、それは万世閣には警官500人とブッシュの警護担当120人が泊ったそうだが、ホテルに来た宿泊費なるものは食事込で1人1日¥7,500-出そうで、これではビジネスホテルだ。これを受けて、社長は通常の半分程度と言う8〜9%の原価で食事を出せ、警官には質より量だから丼物で行けと料理人に指示して、結局は大不満の声の合唱...で料理人のプライドは傷つき、金にならぬ残業は続き、で体調を崩して退職の止むなきに至ったと、ふんだりけったり。

○月○日 社長も社長だが、ホテルに支払う国も国ではあるまいか。ブッシュだ福田だ、が何を食べたか覚えていないが、どうも今回の事件の大本は国にありそうだ。

ところで私は、前にこの欄で“生徒会長だって途中でヤーメタとは言わないが”と安倍・福田の退任について書いたが、そのあと談志の弟子の談之助が、“町内会長だって途中で止めることは出来ぬ”云々と発言してた。それが、生徒会長も町内会長もしたことがないことをやった「安倍」と「福田」が再任されるのだから世の中甘いもんだなあ。小泉2世を撰ぶ奴にも呆れるけどなあ。

○月○日 十勝のレロレロは見事に落選したが、このレロレロを「中川さんが悪いんじゃありません。側近達がいけないんですよ」とかと、まるで過保護の馬鹿母親みたいなことを言った高椅ハルミは一体何を考えていたのかなあ。同様レロレロを誉めて応援演説にまで来たのは,例の丸っパゲの三宅とか言う爺さんだったな。レロレロ誉めて何のおこぼれがあるのやら。

○月○日 去年の11月初旬頃、小林秀雄の未発表の音源が見つかったからとて,雑誌 「新潮」の12月号にそのCDが付録となった。私は小林秀雄に全く感心がないが,この事で,中国文学者高島俊男が書いていたのを思い出した。高島は小林の講演んについて、「粗雑」だと評し、乱暴で,武断的で,時にはほとんど無茶苦茶だと言い,更に稲垣足穂の説を紹介する。足穂は小林の講演を評して曰く「テキヤの親分だ、夜店のアセチレン灯のにおいがする」と。さもありなん,と私も思う。音源と言えば,その声で私が一番驚いたのは,永井荷風の声、まあ品のない声,気持ちの悪いしゃべり方だった。もう1人嫌いだったのは開高健のキンキン声。「小説とは何か」がテーマだったが,話も尻切れトンボ,冗談も月並みでがっかりした。

○月○日 8月末、トニー・ザイラーが死んだと新聞に出た。1956年冬季オリンピックでアルペンスキー3冠王となった人。即ち、滑降、大回転、回転の3種目。場所がイタリアのコルテナダンペッツオだった事もよく覚えているが、あの時の「かなわんな」と言う実感は今でも忘れられぬ。あの時の日本代表は猪谷千春で、私はヒョットしてヒョット、猪谷が勝つのではないかと期待したのだが駄目だった。

何故ヒョットしてと思ったか....それはこの猪谷選手の父親が「雪に生きる」なる本をかいたように、この父子1年中スキーの練習をするべく、日本国内はおろか外地に迄雪のある場所を訪ねて移動した父子であるからで、それだけの練習をしているからにはヒョットしてと思った訳だ。も一つ「かなわんな」と思ったのはこのトニーが映画に出て、確か山の上で骨折(だったか)した若い女をソリに乗せるのではなく、自分の腕に抱きかかえて(おぶってはなかった筈)、ストックなしで麓迄滑り降りて来る場面があって、その「膂力(りょりょく)=物を持ったり受け止めたりするちから)に一驚したものだ。「黒い稲妻」も「白銀はまねくよ」も千歳町の「セントラル劇場」で観た。このトニーに負けて、それでも日本初メダルの銀を獲った猪谷千春がトニーの死に際して曰く、「屈強で、スキー会では今のボルト並みの選手だった」、この言や佳し。



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