司書独言(93)

`09.5月19日寄稿

○月○日 5月15日(金)の室蘭民報(夕刊)に、室蘭図書館だより“ひまわり”「100号達成・8年余毎月1回発行」の見出しで、この「ひまわり」が平成12年11月の創刊以来、現在まで無事続いたことが報じられた。このことは容易のようでいて、実は難しい。「図書官報」なるものを出している図書館は、全国でもいくつもあるだろうが、連綿と続くと言うのは余りない。どうしてか?の答えは簡単で「書き手がいないからだ。

室工大での私の体験から言っても、あちこちから来る情報は実に面白くない。それは誰それが出張したの、どこそこ大学から客が来たの、と早い話が業務日誌みたいになってしまって、これでは関係者はともかく部外者にとっては面白くもなんともない。だからこの連続では読者不在となって、つまりは続かない。

○月○日 大学の館報で共通しているのは、「参考図書解題」を載せることだが、これは字の通り何かをしらべるための本、辞・事典、便覧と言った類いーについての解説ーで、これが又おしなべて面白くない。と言うのはこの手の本は,普通は、大学図書館側がその刊行に気付いて買うと言うよりは,丸善、紀伊国屋などの洋書屋が持ち込んで来るものを買うことが多い。これは司書が不勉強で洋書屋まかせにする結果,こうなるのだが,となると,○社から出た大部の参考書を丸善、紀伊国屋の勧めで全国の大学が一斉に買う。つまり同じものが時を同じくして全国の大学に収まる。すると図書館側ではこのニュースを館報に載せかたがた解説を付ける。

しかし,この解説なるものが,司書自身が調べた結果のものではなくて,洋書屋が置いて行くパンフレットの文をそのまま載せるから,となると,各大学から送られて来る館報に,ほとんど同じ参考書類が新着参考書として紹介され,かつ全く同じ解説文がそれについていると言ったことになる。となると、A大学で出そうが。B大学で作ろうが,内容は似た者同士で、これでは各館報を読む必要はないと言う事になる。ついでに言うと新書の中から「おすすめ本を!」と言う場合、司書が各本を読んだ上でのおすすめならば結構だが、その労を惜しんでの、つまり面倒ぐさがっての結果、只、本についている帯=腰巻きの文章をそのまま載っけるだけでは、司書の必要がないと言う事になる。司書たるもの、本について語る時は、まず本を読んでいなくちゃなあ。

○月○日  と言う訳で、特色ある「館報」を続けて出すと言う事先ずもって必要なのは、「書く人」がいるかどうかだ。「書く人」がいなければ「読む人」はいないのであって、...我が「ひまわり』が続いたのは、この書く人が複数いることが幸いしていると言えるだろう。ところで、何年前だったか、小樽在の○○さんなる人がインターネットに室蘭の「ひまわり」が館報の中で一番面白い、と感想を載せた。ーと言っても私は人から教えられたのだがーするとこれに反論する人が出て来て、何を持ってそう断言出来るのか?と○○さんに噛み付いた。○○さんの答えは自分は個人で各図書館館報を集めて読み比べていて、その挙句の感想なのだ。と実に申し分のないものだったから、イチャモン氏も黙ってしまって、この件は決着した様子だったが、この○○さんまことに奇特な人であって、こういう人に褒められたと言う事を、我々書き手は肝に銘じて感謝せねばならぬ。

○月○日  それから「書き手」の存在もさることながら、館報にしても、まあ同人誌にしても、こう言うことが好きだと言う人が核としていなければならぬ。ナンダカンダと傍から言われようが、「好きこそものの上手なれ」で動じぬ人がいなければならぬ。「ひまわり」の場合で言うと、この核的人物は、元館長の久保さんだ。この人が我々書き手の文章を編集=「塩梅』して、自らワープロを打ち、1人で印刷して、図書館に持って来る。或る年始号の時なぞは年末に家族揃って表紙の図案たる松竹梅に、赤や緑のマーカーとやらで色づけした位で、この「好きこそ〜」の人がいなければ、こうは続かない。館報存続のために久保さんの存在は欠くべからざるものと言わねばならぬ。本記事を取材した高橋結香記者とも言い合ったことだが8年余で100号達成ならば、後8年で200号だ。久保さんまだまだ60代前半だから、となると200号はおろか、と言う結論になるだろう。今から目出たい!!。




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