2022.6.20寄稿
翻訳家で作家の中田耕治が、2021年11月26日に心不全で没した。94歳だった。その後、各新聞に中田の業績についての記事が出た。「ハヤカワ・ミステリー」シリーズの生みの親であること。神田にある翻訳学校で講師をつとめ、多くの翻訳者を育てたこと。etc.
その中田の「五木寛之論1 」が私の棚にある。私は五木のファンではないが、それなのに何故この本があるのか。ある時、札幌の出版社(名は忘れた)の社長と名乗る人から図書館に電話が来て、「中田先生が会いたいと言っているので都合はよろしいか」と言う。私は知り合いに中田姓の人がいないので、「何かの間違いだと思います」と答えた。ところが時をおいて、又電話が来て「中田先生が何としても会ってお礼を言いたいと言ってます」と言う。この時も私はピンとこなくて断った。そして、3度目の電話が来て私は「ひょっとしてあれの事かな」と思いだした。
それは、私が地元紙「室蘭民報」に平成元年(1989)11月4日から連載している「本の話」の事だ。その「本の話」の第337回(2002年(平成14年)3月19日付)のタイトルは「読む楽しみ”ありがたい”」で、すでに倒産して姿を消した出版社数社をあげて、その各々から出ていた名著に値する本に触れたものだ。その倒産組の一つについて、次の文章を書いた。(「本の話、続.」2010・刊P322 ) 「最後は、昭和44年に創業、48年に倒産した”薔薇十字社”。ここはJ.コクトーの”ポトマック”を最初に、最後はドゥールビィリイの”妻帯司祭”を出して力尽きましたが、刊行総数37点。面白くないものは一つとしてありません。その一つが中田耕治の”ド.ブランビィリエ公爵夫人”。これは”ボルジア家の人びと”で近代文賞を受けた中田が異端の文学者渋沢龍彦の文に触発されての作品。17世紀ヨーロッパ貴族社会に生きた稀代の殺人鬼を追ったもの」以上。どう言う経路でかは知らぬが、中田はこの「本の話」を読んでいて、私に会いたいとなったのだ。そして、札幌の出版社社長と2人で室蘭に来た。私はプリンス・ホテルで待っていた。挨拶の後中田はが語った話は、次のようなものだ。第337回が出た2002年当時、中田は失恋して、その上仕事がうまくいかず、つまりは、日々落ち込んでいたが、その時私の文章を読んで自信を取り戻して立ち直ったと言うのだ。で、そのお礼を言いたくて今回来たと言って、進呈してくれたのが「五木寛之論」だ。日付を見ると2004年とあり、この本が札幌の響文社発行だとなれば一緒に来たのはここの社長だったからだろう。私が中田の本で最初に読んだのは昭和35年に出たクロンハウゼンの「性文学をどう読むか)(新潮社)で、これは文献的にも優れた本で得るところ大だった。中田を偲んで出しておこう。私にとっては思いもせぬ出来事だった。私の文章が人を元気付けるとは!
話を変える。 今年は斎藤茂吉の生誕140年だそうだ。それで歌人にして細胞生物学者の永田和宏が新聞に新聞に茂吉の作品、太平洋戦争中に作った戦争賛歌について書いている。茂吉はよく知られたように天皇信者ともいうべき天皇崇拝者で、日本が起こした戦争についても反対の意思は毛頭なかったから嬉々として戦争賛歌を作った。そこで戦争が終わった後は茂吉に対する風当たりが強くなった。「戦争犯罪」つまり「戦犯」の一人と見なされた訳だ。こうしたことを踏まえた上で永田は茂吉をかばう。永田の言い分はこうだ。今ロシアのウクライナ侵攻が起きて、ロシアの心ある人は皆プーチン反対の声を上げた。しかしロシア国内ではプーチン支持の声が圧倒的に多く反戦の声をあげればプーチンに弾圧される。となると、我が身の危険を冒してまでプーチンに反対するものはいなくなる。ところで茂吉は山本五十六大将が死んだ時新聞社など4社から歌の依頼を受けたそうな。かような依頼を受けた時、当時の知識人として、これを断ることは出来なかったろう……..と永田は茂吉をかばう。私は、これは一寸おかしくないかと思う。と言うのは、今ロシアで弾圧を受けるのは反戦、反プーチンの人達だ。一方茂吉は最初から最後まで反天皇でも反軍部でもない。むしろ賛美者だ。これをロシアに例えれば、茂吉の立場は反プーチンではなく、むしろその賛美者で、逆にプーチンから表彰でもされそうな立場だ。ところで私は前に茂吉批判を書いたことがある。茂吉の弟子にして愛人(?)だった永井ふさ子の本が出た時だ。「斉藤茂吉・愛の手紙2 」
その文章「看過できない茂吉の狂愚」(本の話第656回,2014,8,3付け)を出しておく。
結論として私思うに、茂吉は歌人としてはすぐれていた。然し、事政治に関しては愚かも極まれりだった—–として茂吉を片付けてもいいのではなかろうか。歌人として持ち上げたいばかりにどの分野においても超人的に優れていたーなぞとほめる必要は毛頭ないと思うがね太平洋戦争に協力せぬとして、戦争中は筆を絶った人は何人もいた。茂吉は筆折る気はなかった訳だから「おろか」だったでいいんじゃないのかね。その辺りを考えてみたい人にすすめるのは加藤淑子の「斎藤茂吉の十五年戦争3 」だ。
話を変える
今年は沖縄復帰50年の節目だが、辺野古の問題を初めとして沖縄は見捨てられたままだと言う感じが強くする。辺野古は沖縄の北部、名護市の東海岸で、ジュゴンも泳いでいる所だ。那覇から約50kmだ。ここに本島中部にある普天間の飛行場を移すというのだ。この事で一読仰天する話が、上杉隆の「オプエドー真実を知るための異論、反論、逆説ー4 」に出ている。2015年にアベとオバマが日米首脳会談の後、揃ってスピーチをした。まずオバマが沖縄の米軍基地の役割について語り、沖縄の海兵隊については「これまで通りの方針で、沖縄からグアム移すという事を確認した」と言った。所が、ギッチョンチョンで、これを同時通訳したNHKが「海兵隊の再編については、これまでの方針通り、普天間から辺野古へ」と訳したのだ。上杉は、「そもそも2009年の鳩山政権の時から、アメリカはグアムに移すとずっと言っていたのである。日本政府とメディアだけが”辺野古だ、辺野古だ”と言っているのだ」そして上杉はホワイトハウス他を調べてNHKに問いただす。NHKは結果「一部訳に間違いがありました」と訂正する。上杉はダメ押しする。「ここで何が問題かというと、一連の誤報は外務省の情報操作だったという事だ」。読者これどう判断する?
因みにオプエドとは「Opposit(オポジィット)=反対の」「Editorial(エディトリアル)=社説」の略で、A社の社説に、反論を並べて載せるというやり方。これがアメリカの新聞の普通のやり方だだそうだ。「あれよ、アレヨ!」の反論、異論に満ちたこの本自分で判読してくだされ。同じ上杉の「ジャーナリズム崩壊5 」も政権にやられている日本のジャーナリズムの欠点を突いて鋭いぞ。